≪内容≫
仕事を辞めて何もせずに生活していた達夫(綾野剛)は、パチンコ屋で気が荒いもののフレンドリーな青年、拓児(菅田将暉)と出会う。拓児の住むバラックには、寝たきりの父親、かいがいしく世話をする母親、そして姉の千夏(池脇千鶴)がいた。達夫と千夏は互いに思い合うようになり、ついに二人は結ばれる。ところがある日、達夫は千夏の衝撃的な事実を知り……。
一回目に見たときは、「そこでしか輝かない光、みたいなものがあるのかな・・・」とかいう抽象的かつふんわりとした感想だったんですが、二回目の今回はけっこうしっくりときたものがありました。
たぶん、同じ作者のこちらを見た後に見たからだと思います。
本作もそうなんですけど、本当に狂っているのは逃げられると分かっていても逃げないワシか、檻が開いて自由に逃げ回る動物たちか?なんです。
狂ってるのは壊れた家庭に住まう千夏たちか、社長で家族も持って権力もある男なのか?と思えてくる。この作品を見ると、多数決の世界が分かります。多数決で決まった社会システムが押し付けてくる常識に、肌の合わない少数派が生きていく過酷さ。でも、それでも作者は希望を書いてると思います。
すべては生きているからこそ開かれる
今更だけど、映画で大切なのって冒頭だな、と思う。
最初に作品の「テーマ」みたいなこと、骨格みたいなものが冒頭で語られてることが多い。この作品も最初は達夫(綾野剛)の妹から「早く家族を作って」という内容の手紙から始まる。
この作品の大骨は「家族」である。
両親の墓さえ作らない家族と無縁の主人公・達夫がやってきた街では家族のために働く一人の女性がいた。その女性・千夏と出会ったのは千夏の弟で仮釈放中の拓児に家に招待されたからである。
達夫が仕事を辞めたのは、自分のせいで事故死した人間がいたからで、今もフラッシュバックにより達夫の心は荒んでいた。達夫の両親は亡くなっており、妹とも疎遠で、見る限り友人や恋人は描かれていない。
そんなときに出会ったのが、無邪気な拓児であり、家族のために働く千夏だった。二人は今にも壊れそうなバラックに住む四人家族だったのである。
根無し草状態の達夫を否定するでもなく受け入れてくれた千夏を好きになった達夫は、千夏の売春を辞めさせたい。しかし自分は無職の身である。そんな達夫の身勝手な発言は千夏を怒らせるだけだった。
そして千夏には不倫相手の男がいた。権力を持ち拓児の保護観察者でもあり、千夏にお金をくれる(つまり売春)相手でもあった。この男は家族があり、社長という座もあり、一見勝ち組なのだが、家族との良好な関係を保つために千夏との不倫関係を断固として続けようとする悲しい一面を持っている。
更に、千夏たちの父親は脳梗塞のあと寝たきりだった。しかし性欲は衰えず放置する母親に対して情のある千夏はその処理も行っていた。
・・・というように、千夏の周りの男はかなりイレギュラーである。しかし、彼女の前に一般的なサラリーマンや常識や教養が十分ある男が現れ千夏を好きになったとして、千夏は好きになれるのかな?と思うと、なんだかそれは無理な気がする。
あたしだって昔ちゃんと働いたことあんだよ
運送会社の事務で
だけど一カ月も持たなかった
分かんないんだよね私には
毎日会社行って仕事終わりに飲み行って
いるとこないんだよね
私には
常識も教養も、この社会に適合するためのものである、と私は思ってる。
それを子供のうちから叩きこみ生きていけるように人間を変えていく。そうすれば今の社会システム事態を変える必要もない。だって疑問を持たないようにしてるんだから。
そこに適合できない人間は、落ちこぼれみたいなもので、適合できる人間が大半なんだから社会システムではなく、その個人に問題があると見ればいい。
そういう世の中かな、って私は思う。
千夏たちの両親はもう諦めているっぽけど、達夫と千夏と拓児はまだ若い。だからもがく。そして、千夏と拓児は家族を大切に思うがゆえにどんどん傷付いて傷付けられて傷付けていく。家族がいなければもっと自由になれたんじゃないか、って思うほど。
だけど、家族がほしい、家族を持ちたい、と思うからこそ立ちあがれる人間がいて、家族のために生きてる人間に光をもらう人間がいる。
一回目観た時は「そこのみ」とは「底」という意味で、千夏たちの生活を底辺として示唆しているのかな、と思ったのですが、おそらく「そこ」と言うのは我々が今現在立っている場所であり、地に足がついている場所、つまり生きている場所にしか希望は生まれない、という意味なのではないかな、と今回思いました。
この作品は苦しいけれど、誰も死にません。
生きてる限り、どんなことがあっても希望があり、道がある。
ラストの夜明けのシーンは「明けない夜はない」というメッセージかな、と思います。
生きてこそ、だよ本当に。