≪内容≫
トリイの補習教室は、あらゆるクラスからはみ出した四人の子どもたちで大混乱。自閉症のブー、識字障害のロリ、粗暴なトマソ、うつ状態のクローディア。苛酷な運命から彼らを救おうと全精力を傾けるトリイに彼らはいう。「わたしたちみんな、どうせよその子じゃない。なんでそんなに気にかけるの?」涙とケンカを繰り返し、やがて四人は互いの能力を引きだしあうようになる。トリイと子どもたちの間に特別な絆が結ばれていく感動作。
本書に出てくる子供たちの中でも、とりわけ識字障害という目に見えない障害と戦うロリの心は 誰よりも気高く美しいと思う。
美しい子どもたち
ものってほんとは完璧じゃないんだよね。でも、そうしようと思えば、心の中でいつでも完璧に見えるんだよ。だからいろいろなものがきれいに見えるんだ。
ロリは完璧な絵を描いたつもりだったけど、それが不完全なことを分かっていた。だけど、それでもその絵は完璧なのだ。要は見る側の心の奥行きによって絵はどんな風にでも変わる。
ロリは生家で虐待を受け、そのときに殴られた頭蓋骨骨折。その骨の破片が彼女の脳につきささり、損傷が残ってしまった。後天的に障害を負うこととなったロリは、ダウン症や愛着障害のような目に見える障害ではなかったため、端から見たら彼女は一見ごくふつうの子供に見えた。
それ故にロリは出来ない自分を常に意識させられる。先生からは彼女が出来ないのではなく、怠けていると見えるからだ。
わたしはいつもお勉強のできる生徒で、苦労したことなど一度もなかった。だから、七歳で自分の人生の半分は失敗だとわかっているということがどんなことなのか、毎朝起きて、どんなにがんばってもうまくやれない場所にやってきて、六時間を過ごさなければならないということがどんなことなのか、わたしには想像できなかった。
たぶん多くの人がこのトリイの言葉にうんうんと頷いてしまうと思う。私は今この本を読むまで、単純に「大変なんだろうな」と認識だけはしていて、トリイのように具体的に想像する範囲には至っていなかった。
それなのに、ロリはこの先少なくとも七年、つまり彼女が生きてきたのと同じ年数、この苦しみを味わわなければならないと法律で決められていた。殺人犯でも投獄される期間はこれより短い。ロリがしたことといえば、ただひどい家庭に生まれてきたということだけなのに。
ロリがしたことといえば、ただひどい家庭に生まれてきたということだけなのに。
ロリの他にも、ほとんど言葉を発さないブーと、自分を嫌いに仕向けるために暴力や暴言を放つトマソ、12歳で妊娠したクローディアがいた。
トリイはたったひとりで4人と向かい合っていた。
しかし時が経つにつれて大人には分からないところで子ども同士が結びつき、誰かの悲しみを自分の悲しみのように嘆いたり、怒ったり、楽しいことがあれば楽しんで笑って、もし何か間違いがあっても仲直りすることができるクラスになっていた。
トマソの癇癪に対していつもやさしかったのはロリだったし、ブーのことをすぐに受け入れたのもロリだったし、クローディアは一人だけ年齢が離れていたけど三人のことを分かってくれた。
分からないのは大人だった。
もしロリが目が見えなかったり、耳がきこえなかったり、腕がなかったのなら、彼女が切れてしまうまでいじめたりしたら、わたしたちは人でなしということになるはずだ。だが、彼女の障害はだれにも見えないところにあるので、わたしたちは非を彼女のせいにすることができるのだ。そしてわたしたちはここで何の罪も感じることなくすわって、専門職の人間が得意なことをやっているのだ。つまり神のようにふるまうということを。
彼女の障害はだれにも見えないところにあるので、わたしたちは非を彼女のせいにすることができるのだ。
ロリはトリイではなく担任の先生には障害を認めてもらえていなかった。だから彼女の識字障害は怠けているとされ、本を読むように強要されてしまう。先生の執拗な教育は他の生徒達にも伝染し、ロリが読めずに困っていると子供たちもくすくすと笑うようになってしまったのだ。
ロリは登校拒否になってしまう。
この中で有名な教育者の訪問後にトリイが「彼女は青い鳥を一羽も見ていない」という風に感じた部分がとても胸に残った。青い鳥は伝説なんかじゃなくて、身近にあるんだけど、それは心の中を通さないと見えないのだと気付くきっかけになった。