深夜図書

書評と映画評が主な雑記ブログ。不定期に23:30更新しています。独断と偏見、ネタバレ必至ですので、お気をつけ下さいまし。なお、ブログ内の人物名は敬称略となっております。

桜の園・三人姉妹/チェーホフ~貴族って地味にスポイルされまくってるよな、と思う~

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≪内容≫

急変してゆく現実を理解せず華やかな昔の夢におぼれたため、先祖代々の土地を手放さざるを得なくなった、夕映えのごとく消えゆく貴族階級の哀愁を描いて、演劇における新生面の頂点を示す「桜の園」、単調な田舎の生活の中でモスクワに行くことを唯一の夢とする三人姉妹が、仕事の悩みや不幸な恋愛などを乗り越え、真に生きることの意味を理解するまでの過程を描いた「三人姉妹」。

 

なんかロシアの作家って特徴ある、というか大体似通ったこと言ってるな・・・と思ったのだけど、それってやっぱりその時代に生まれる悩みが同じだからなのかな、と思ったり。

 

貴族よ、働け

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「桜の園」は没落していく貴族と、働いて家主になった奴隷の話(ざっくり)なんですが、とにかく金がなくても貴族は浪費しかできない。その哀しさがね・・・この作品の味なのかなぁ。

 

ああ、わたしの子供のころ、清らかな時代!わたし、この子供部屋に寝て、ここから庭を眺めたものよ。あの頃は幸福が、毎朝わたしと一しょに目をさましたっけ。

 

主人公・ラネーフスカヤ夫人借金のカタに売られることとなった自分の家を見に戻ってくる。その家の庭には桜が咲いていて、夫人の幸福な子供時代の象徴でもあった。

しかし、そんな幸せだった過去も金のために夫人の前から消え去ろうとしていた。

 

夫人は借金をしている身だというのに、貴族という身分から降りられない。貴族だから働かない、貴族だから物乞いに金を恵まなければならない、彼女の貴族としての振る舞いが彼女の大切な家を売ることに繋がっていく。

 

がしかし率直に、虚心坦懐に判断してみるとです、そもそもの誇りなるものが怪しいと言わざるを得ない。げんに人間が生理的にも貧弱にできあがっており、その大多数が粗野で、愚かで、すこぶるみじめな境涯にある以上、誇りとかなんとかいっても、なんの意味があるのでしょうか。自惚れはいい加減にして、ただ働くことですよ。

 

そんな夫人の振る舞いに対して万年大学生のペーチャはこう告げる。彼は哲学を勉強しているが万年大学生で、26か27歳なんです。ここら辺がよく分からないんですが、この時代のロシアの学生って何歳が普通なんでしょうか・・・?

 

ペーチャが言うことはごもっともなんですが、彼も彼で自立していないのでとにもかくにも貴族やインテリは地に足がついていない印象です。

反対に生活を確立させていくのための、生活力を磨きあげて家を手にしたのが先祖代代奴隷として暮らしてきた商人・ロパーヒン。彼は祖父も父も奴隷として雇われていた姿を見て育ってきました。

そして、この期を逃さずに桜の園を買い取ったのです。

 

「三人姉妹」もそうですが、生きていくって何のためって単純に生活ですよね。んで、生活といったら習慣で、習慣は繰り返し行うこと、すなわち日々同じことを繰り返すこと。毎日違った遊びや酒や女やとっかえひっかえしていたら習慣は生まれない。

貴族って楽しかったのかな?と思うと不思議ですよね。吐くまで食べて吐いたら服を着替えてそうやって日々やりすごしてたのかと思うと、新手の地獄かな?とも思う。