≪内容≫
エドワードは彼が語るお伽話で有名になった人物。
未来を予見する魔女のこと、一緒に旅をした巨人のこと、人を襲う森とその先にある美しい町のこと。
彼が語る「人生のストーリー」に誰もが楽しく、幸せな気分になった。しかし、一人息子のウィルはそんな父の話が嫌いだった。長い間すれ違う父と子。そんなある日患っていたエドワードの容態が悪化し、実家に戻ったウィルに、残された時間があとわずかだと告げられるー。
物語のフィクションは喜んで受け入れるのに、知人の盛った話はなんとなーくシラけちゃう。
その違いは家族ほど深くなっていくと思います。他人からは好かれる父親をどうしても好きになれない子供の気持ちが分かって、とても共感できた作品です。
夢は現実から生まれる
主人公・ウィルの父親は、そのユーモア溢れる夢いっぱいの語りで人々を魅了し愛されてきた。父・エドワードはリアルな現実をそのまま語るのではなく、まるでおとぎ話の一つのように話した。それがあまりに悪びれも照れもなく当たり前に語るのでどこまで本当に起きたことで、どこからが作り話なのかウィルには分からない。
他人はエドワードの語る話の現実と作り話の境界線は求めない。なぜなら、一生涯付き合っていく元・他人である妻は事実の元ネタを知っているし、それ以外の人間はその瞬間が楽しいに越したことはない。
出会う人達を楽しませていく力で、エドワードは皆に好かれていた。それが作り話だと分かっていても、自分たちを楽しませてくれるサービス精神が愛されていたのだ。
だが、通りすがりの人間にとって一瞬の楽しさはものすごくあり難いが、習慣を共にする人間にとっては楽しさだけの言葉では生きていけない。
リアルは、お金がなくては生きていけないし、ご飯を食べなきゃ生きていけないし、現実はもっともっと泥まみれだ。
もしもこれが子供なら、自分が現実を教えていけばいい、と思うかもしれない。しかし、人生のモデルになるはずの父親がそうであったウィルは、エドワードの生き方とは真逆の道を進むこととなり、父子の関係は断絶してしまった。
長く続いた父と息子の断絶は父の最期に向かって再びつながれていく。
この映画、たぶん私もウィルだったらウィルと同じように生きると思う。なぜなら父の話を疑うこともせず、希望だけを学んで社会に飛び出たはずだから。そこでは父の話すような素敵な出来事は一つもなく、泥くさい地道な毎日しか起きず、「これが現実ならどうしてあんなに楽しく話したんだよ!なんでこんなに味気ない毎日が人生何だって教えてくれなかったんだよ!」と思っただろう・・・。
現実って地味だよね。でも、ただ地味なだけならいい。ときに現実は人を悲しませるから、どうせ同じ結末でもなるべく悲しまないようにエドワードはお話をしてくれていたんですね。
ほんとに"大人になれば分かる"とはことのこと・・・。