深夜図書

書評と映画評が主な雑記ブログ。不定期に23:30更新しています。独断と偏見、ネタバレ必至ですので、お気をつけ下さいまし。なお、ブログ内の人物名は敬称略となっております。

隣の家の少女/ジャック・ケッチャム~子どもに嫉妬する大人と無力な子どもたち~

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≪内容≫

 1958年の夏。当時、12歳のわたし(デイヴィッド)は、隣の家に引っ越して来た美しい少女メグと出会い、一瞬にして、心を奪われる。メグと妹のスーザンは両親を交通事故で亡くし、隣のルース・チャンドラーに引き取られて来たのだった。隣家の少女に心躍らせるわたしはある日、ルースが姉妹を折檻している場面に出会いショックを受けるが、ただ傍観しているだけだった。ルースの虐待は日に日にひどくなり、やがてメグは地下室に監禁されさらに残酷な暴行を―。キングが絶賛する伝説の名作。

 

 たぶん、10代で読んでたら引きこもりになるし、20代前半で読んだら人間不信になったと思う。リアルに20代前半でこの作品の対比として言われている事件を知って眠れなくなったときがあったから。

 これは確かに人を選ぶと思う。もしも純粋無垢ならもう少し草むらで遊んで来てからの方がいい。

 

子どもほど弱いものはないf:id:xxxaki:20190417224410j:plain

 この話、Amazonのレビューや最後のキングのあとがきでもあるけれど、キングの「スタンド・バイ・ミー」とマークトウェインの「ハックルベリ・フィンの冒険」と通ずるものがあります。それは子どものどうしようもない無力さです。

人は、小さいときに正しい始め方をしなかったら、もうチャンスはないんだーピンチになったとき、自分をバックアップしてくれて、とことんまでやらせてくれるものが、なんにもないんだ。だから負けちまうんだ。 

ハックルベリ・フィンの冒険から

  本作は主人公・デイヴィッドの隣の家にメグという年上の美少女とけがをしている妹のスーザンが引っ越してきたことで、隣の家の女主人とその街の小さな子どもたちが狂っていく、という話です。

 

 ハックが言うのは良いバックアップがあれば~の意味ですが、本作はバックアップはあるけれど、悪いバックアップでした。ハックには親はいても搾取して奪う親だったし、「スタンド・バイ・ミー」ではネグレクトで何も与えない親だった。本作は親ではない隣の家の他の子の母親が子どもたちに"悪"の種を植え付けたのでした。f:id:xxxaki:20190417225614j:plain

  デイヴィッドや他の子どもたちにとって隣の家の女主人・ルースは、大人にしては子どもの気持ちがわかる"友達"のような存在でした。ルースは自分たちを躾けたりしない。親に禁止されているビールやたばこも許してくれる優しくて美しい大人の女性。

 

 ルースは女手一人で三人の子どもを育てている。全員男の子で、デイビッドも近所の悪ガキも男の子。ルースの周りの子どもはメグとスーザンが来るまで全員男の子だったのだ。

あたしたち女は、ママと同じあやまちをくりかえしてしまうから、いつも男に降参するはめになるんだ。あたしにも同じ弱さがあったから、ウィリーが残したあの子たちに腹を空かせるはめになってるのさ。昔のように、戦争中のように働くこともできやしない。いまじゃ男たちが仕事という仕事をとっちまったからね。 

  本作の犯人・ルースは饒舌である。

 これは実際にあった事件を元にしているけれど、実際の犯人がここまで分かりやすく自分の気持ちを語る(もしくは理解している)かは謎です。

 いいかい、女はふしだらで、動物同然なんだ。それを忘れちゃいけない。いつも心にとめておかなきゃならない。利用され、犯され、虐待されるんだ。穴を持った愚かでふしだらな負け犬であって、それ以上のものにはけっしてなれないんだ。

  おまえのためにしてやれるのは、いまあたしがしてることだけなのさ。いうなれば、おまえのそれを焼きつくしてやろうとしてるんだ

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 ルースにとってメグの局部を焼き、メグの光を閉ざすことは現在の自分を肯定する重大な儀式だったのだと思います。自分の人生がこうなったのは、自分のせいではなく"女"であったから。つまり、ルースにとって女は全員不幸でなければならなかったのだ。スーザンのように肉体的損傷があったり、エディの妹のように歪んでいたりしていればルースの世界は壊れない。壊れるのは、見た目も美しく心も気高いメグのような女がルースの世界に足を踏み入れたときだった。

 

 そして、本作の主人公・デイヴィッドと他の少年たちがメグに対してルースの手下となり悪事を働いた心理状況。

子どもは残酷だとよく言われる、子どもは昆虫や小動物をよくいじめたり殺したりする、玩具を壊す子どももいる、それは興味本位でやっているのではなく、想像力の不安を現実の中にスルーさせて逃がすためだ、昆虫をいじめて殺すという自分の想像力に耐えきれなくて、昆虫を殺しても自分や世界が崩壊するわけじゃないことを無意識に試しているんだ、

インザ・ミソスープ/村上龍から

 

  デイヴィッドは子どもは大人のおもちゃであると漠然と感じていた。その予感はメグの登場によって確信に変わる。

 メグが助けを求めた警官はメグの言葉を信じなかった。そのことに安堵しながらも、やはり子どもの言うことは大人は信じないのだ、ということをメグに見せつけられたと感じたデイヴィットは彼女を憎むのだ。

 

 なぜ憎むのか?

 それはメグが自分ら子どもたちのアイデンティティーを脅かしたからである。自分たちなど、大人の都合でどうにでもされてしまう無力な存在なのだということが、メグの衰弱とともに真実となっていくからである。

 

 子どもたちはメグを助けない。

 メグが死んでも、メグは無力な子どもの一人なのだから何てことないと思ったのだと思う。だから自分たちがメグの立場になる可能性も感じていたし、なったとして自分だけが例外になることなど有り得ないと思っていた。ゆえに、メグに与えられなかった危害を与える側という特権を手放すことが出来なかったんじゃないでしょうか。

 そして、そう子どもたちに思わせたのはルースだけでなく、時代の雰囲気もあったんじゃないかと思われます。

 

 デイヴィッドは他の子どもたちがメグの死とそれによって訪れる自分たちの未来について何も考えていない、想像力がないのだ、というのだけど、他の子どもたちはその想像力に耐えきれなかったのかもしれない。

 

 大人になって思うのだけど、ルースのような自分の歩みたかった人生を歩もうとしている子どもに嫉妬する大人がいるということ。そして大人は間違っていても力があるということ。改めて感じる、子ども時代の無力さとその無力さからくる怒りを。