
≪内容≫
自身も俳優として活躍するパディ・コンシダインの長編監督デビュー作となる人間ドラマ。妻に先立たれた失業中の中年男・ジョセフは酒を飲んでは暴れる日々を繰り返していた。自己崩壊寸前に追い込まれた彼は、ある日ハンナという女性と出会い…。
これ観るまでイギリスの労働階級とか知らなかったんですよね。ていうかこれがイギリス映画だなんて思わなかった。こういう欝憤としたイメージがなかったんですよね・・・いい面だけがある国なんてあるはずもないのに、こうやって他国(他人)を過度に持ち上げる。そんな自分に気付いたのが本作の主人公で狂犬のジョセフである。
人生を考え直すとき
主人公・ジョセフは誰彼かまわず難癖をつけてつっかかってしまう。唯一の家族である飼い犬は自分の腹いせのために蹴り殺してしまった。職もなく酒浸りの生活だったが、つっかかった相手に「なぜいちいちつっかかってくんだよ」と言われてハっとしたジョセフは開いていたチャリティ・ショップに入り服がかかっているラックに姿を隠す。
店主のハンナは怪しがりながらもジョセフのために祈り始め、その言葉にジョセフは涙を流すのだった。
ジョセフの家の真向かいには、シングルマザーとその息子、そしてママの恋人が住んでいる。息子であるサムは、ママとママの恋人のために夜中に家から追い出されたり、ママの恋人に大切なウサギのぬいぐるみを取り上げられたりしている。しかもこの家にはママの恋人が世話をする犬がいた。前のパパからのプレゼントであるウサギのぬいぐるみは大事にしすぎてボロボロだった。
サムはジョセフにいちいち話しかけるなど、対人関係に問題があるジョセフにとっては社会と家との中間にいる存在だった。しかし、サムはママの恋人によって調教された犬に顔を食いちぎられかけてしまい大けがを負う。
一方、チャリティショップで働くハンナは世間から見れば何不自由ない生活を送っているように見えるが、実際は外面のいい夫の憂さ晴らしサンドバックであり逃げ場のない家という檻に閉じ込められていた。
妻を失い職も失い、何もかもないと思っていたジョセフはハンナの優しい光に触れ、その光に照らしてほしかったと言うが、実際はハンナもジョセフと同じく救いを求めている人間であり、ご近所のサムもまた同じだった。
動物は過度に虐待されれば反撃に出る
それが自然だ
ジョセフの過去は語られないが、ジョセフが自らを犬とし、自分が社会に反撃するのは自然なことなのだと言う。それが自分が持つ権利のように。だが、この言葉は物語の前半では"過度に虐待された動物"の視点であるが、後半は"それを見た人間"の視点に変わる。
前半でジョセフが蹴り殺した犬は、虐待によって殺される動物(幼い自分)であり、後半のサムの顔を喰いちぎろうとした犬を殺すのは、人間的な処刑(責任)である。虐待を知りながら助けなかった人たちに変わってサムを助けるために殺したのだ。
人は、ジョセフのように分かりやすい反撃の形はとらない。
だから一見、辛いのはジョセフだけのように思う。しかし、実際は実母と一緒に暮らし目に見えた虐待を受けていないサムも、世間的に問題のないハンナも、一番近くにいる人に殺されそうになっている。
ジョセフはようやく反撃しない人間も密やかに殺されているという現実を知るのだった。そしてそのことを知ってからジョセフの新しい人生が始まるのである。
この目に見えない部分。まさにパッケージの大地に眠るティラノザウルスの化石みたいに秘められた部分を"感じる"もしくは"発掘する"というのはまさに思秋期だからこそ辿りつけるのではないでしょうか。この映画はそういう意味でものすごく苦しい。実際の人生のように楽しくない。しかし得るものは大きい。そんな映画です。