≪内容≫
就職氷河期以降の若年層が抱える困難、いまだに根強い日本の男女差別。その両方を抱えながら、働くことも、結婚して子どもを産み育てることも期待されているのが、いまのアラフォー/非正規/シングルの女性たち。「一億総活躍社会」の掛け声の陰で、困難を抱えてひっそりと生き抜こうともがく女性たちの等身大の姿に迫る。
つい最近まで「就職氷河期」という言葉は知っていたけど、その中身と弊害がどんなものかっていうのを考えることもなかった。
けど、先日の選挙投票に行くために色んな意見とか政策とか見てると消費税を上げる上げないの話が特に目立った、消費税に対して私はずっと上げなきゃやっていけないなら上げるしかないんじゃない?と思っていたのだ。人手不足なら海外から呼び寄せなきゃしょうがないんだろうなぁ~みたいな。
でもググりまくってみると、上に上げた「ロスジェネを雇え!」というのが出てきた。気になって見てみると就職氷河期に何が起こっていたのか、現在その世代の人たちの暮らしがどうなっているのかが書かれていてびっくりしました。
でも言われてみれば、私の上司も50代で40代の人っていないんですよ。ここに思い当たった時、冗談抜きでぞくってしました。本書は「貧困女子」であって「就職氷河期世代」ではないのですが、氷河期時代に就職出来ず非正規の期間限定職務を渡り歩いてきてしまった故に、という内容が多かったです。
お金が稼ぐことができない=稼ぐ能力がない、もしくは=努力が足りない、という見方、更には=生活センスがないとか=役立たずとか稼げないことによって、物質的な貧困はもちろん人と人とのつながりも希薄になってしまう。
気付いてしまえばどうしてそんな簡単なことに気付けなかったんだろう?と思うことばかり。耳も痛ければ無知さに悔しくなるけど、読んで良かったと素直に思ったし、読んだことできっともっと知らないことがあるとおもいました。
救われるのにも資格がいる
「救われるべき貧者、弱者」として認められない限り、"ダメ人間"と烙印を押され、終わりのない努力を強いられるのだ。
しかしこの「救われるべき貧者、弱者」という価値観は非常に危うく、移ろいやすい。
さらにそれに値するかどうか、衆人の監視に晒される。
(中略)
「救われるべき貧者、弱者」であるためには、常に頭を低くし、憐れみを請わなければならない。しかし「健康で文化的な最低限度の生活」を謳った憲法二十五条を持ち出すまでもなく、誰もが生きる権利を有している。困難な状況にある人を救済することは、憐れみでも何でもなく、国家の当然の義務なのだ。
「それに値するかどうか、衆人の監視に晒される。」というのが、審査方法というんですかね。
貧困だという人はオシャレをしたりネイルをしたりしてはいけないのか?生活に最低必要な食費や光熱費でいっぱいいっぱいでそれ以上の文化的な行動、例えば美術館に行くとか映画を見るとかそういうことは許されないのか?
そういった自分の好きなことに向かうエネルギー=余力とみなされ、=努力不足になるのだろうか。
正直、答えはないと思うし人の数だけ貧困の形があると思う。いわば貧困であることの表現方法というのかな?それに貧困と言っても人によってレベルが違うし、貧困に対する向き合い方も違うだろう。
実際、いつもお金がないと言って税金を払わずに夢である音楽活動に打ち込んでいる人が職場にいた。督促状はもちろん、飲み会などのお金も上司が払っていた。お金はないけれど人がいいから呼びたくなってしまうんだろう。彼女は誰よりも派手なメイクと毎月変わるネイルをしていたし、何か嫌なことがあると厄払いと言って財布やらバッグやら身の回りの物を全て買い替えていた。ペットも買っていた。要するにお金がなくても好きに生きていたのだ。
たぶん、お金がないこと=貧困は一つの真理だと思うけれど、お金がなくても自分の人生を自分で好きに生きられる人は「救われるべき貧者、弱者」ではないのだと思う。彼女のやっていることには賛同も否定もできないが、世の中には上司の様に世話を焼きたい人がいて、彼女のようにその申し出に「あざーす!」と言える人がいるのだ。
反対に彼女と同じように事務仕事をしながら夜の仕事をしている先輩がいた。二人に共通するのは酒好きとオシャレ好きで、どちらも消費するお金が必要だった。
だけど、先輩は人に甘えるのが得意でなく上司に奢ってもらっても、次の飲み会でその分多く払ったりしていたそうだ。先輩は彼女のことを「ずるい。恥ずかしい。」と言っていた。しかし、上司が気に入っているのは甘え上手な彼女の方である。
二人の収入や出費に大差がなくても、どちらにも平等に手を差し伸べるというのは不可能で、それはやっぱり上司の好き嫌いだったり気分だったり価値観、見方によってしまう。まあ勝手に「救われるべき貧者、弱者」であるかどうか判定するのも大分失礼なことだと思いながらも、なぜそう思ってしまうのかと言うとやはり目に見える出費(ブランドのバッグ等)と本人による自己申告、行い(かけ持ちバイトによって仕事を休んだり)がそう思わせてくる気がする。
「健康で文化的な最低限度の生活」という文言でイメージする像が人によって違いすぎるし、想像は自由だからやはり貧困がどこからどこまでなのか、本書では年収200万円以下をワーキングプアと書いているが、200万円以下だと「健康で文化的な最低限度の生活」が出来ないと画一化することはできない。
なぜなら、本書に詳しくインタビュー形式で書かれているが200万円以下でも家族との関係が良好だったり職場の人間関係だったり友人や恋人など人とのコミュニケーション(関係性)が貧困でなければ物質的な貧困は大きな問題ではないからだ。
問題なのは、200万円以下で更に家族との関係が悪い場合、もしくは恋人や夫からの暴力があった場合で、そうなった際には賃貸もしくはネカフェ難民、寮付きの風俗などに身を寄せるしかなくなり、賃貸の場合は物質的な貧困に陥るし、ネカフェ難民では不安が病気を呼び働くこともできず出費が大きくなるケースに発展、風俗でも合う人はいいかもしれないが、心も体もすり減る肉体労働である。
私の職場の人たちはいわば「物質的な貧困」だからこそ、バイトの掛け持ちや単発のバイトなどで賄えるのだと思う。よくテレビで貧乏な人の生活を取り上げているが、出ている人は創意工夫で光熱費を下げたり食費を浮かせたりしているが、やりたいことがあって楽しそうである。
いわば選んだ貧困とならざるを得ない貧困があり、「救われるべき貧者、弱者」というのは後者のことなんだろうな、と思います。
話が長くなったので、なぜ貧困"女子"なのか、という部分は後編と致します!
お金がないといいつつ湯水のように使う彼女と出かけたことがあるのですが、ケチケチしてる自分がひどくつまらなく思えましたwお金使うのって楽しいんだよね。でも私は楽しいことより我慢の嫌い度合いが上回るのでどうしても使えないのでした・・・。