≪内容≫
角膜移植手術を終えたばかりの双子の姉サラが自宅地下室から首吊り死体で発見され、他殺ではないかと疑い始めた妹フリアは独自に調べることに。次第に明らかになっていく事実の一方で、フリアの周辺では正体の見えない不穏な影がチラつき始める。視力もどんどん失われていき、完全失明までに残された時間はあと1ヶ月─。R-15指定作品。
こういう映画に出会うと、やはり欧州の男性の孤独ってアジア圏よりよほど辛いんだろうか・・・などど思う。
この本には哲学は欧州男性が作ったものだからあんまりアジアの男には当てはまらん的なことが書いてあるんだけど、この映画を見るとまあそうかもなぁ、と納得してしまう。
集団無視の最終形態
失明の宿命を背負った姉妹のうち姉のサラが先に発症し角膜手術を受けたあと自殺した。妹のフリアは姉の死に不信感を抱き独自に調査を進めるが、見えない謎の人物へのストレスから失明の期限が刻一刻と迫って来ていた。
気にすると自分の失明を早めるだけだと止める夫を無視して調査を進めていくと、姉のそばにいたはずの何者かの存在が浮上する。しかしその人物を記憶している人はほとんどいない。レストランの店員は姉のサラは記憶しているが同伴者は覚えていなかった。その他のサラとその人物に接触した人間もそうだった。
ついに失明したフリアは一人ぼっちだった。姉のサラを自殺で亡くし、夫は殺されてしまった。失意のどん底に落ちながらフリアは手術を受け包帯が取れる日を待つのだったが、何者かが自宅で入ってくる物音や雰囲気に脅えるようになる。
警察も誰も捕まえられないその人物は人間なのか悪魔なのか。その答えは予想をはるかに超える場所に辿り着く。
目が見えない人は視力以外の五感が発達するという。そして介護人を必要とする。別に障害を持った人だけではなく人は人を必要とし、必要とされることで生きられるのだが、健常者と障害者で生まれる違いというのは、選べる範囲である。
健常者はより多くの数の中から自分の気に入る人を選べるが、障害を持った人はヘルパーの資格を持った人の中から選ばざるを得ないし、見えないのだから相手がどういった風貌でどういった表情をしているのかは判断できない。
このことを逆手に取ったのが本作である。視力がある世界では存在を認められないなら、視力がない世界で生きていこうと決めた犯人だったが、現代は角膜手術によって一時的な失明はあっても永遠の失明、しかも伴侶や家族がおらず、ヘルパーを要請するのではなく個人的な関係を求めている人間を探すのは至難の業だ。
だから考えた。ならば、視力を失う可能性のある人をストーキングし、一度受けた角膜手術を失敗させ自分が介護人として一生傍にいて共に生きよう・・・とね。
背景には、そうやって誰かとくっついていないと周りから存在を認められない(いじめではなく覚えてもらえない)悲しみがあり、そんなことある?と思いつつ確かに影が薄いという言葉があるくらいだからあるのかもしれないし、人はだからこそ役職や肩書を求めるのかも知れない・・・と思った作品でした。
THEスペイン映画だなーと思うのは、最後の最後で究極のロマンチックを入れてきたところ。クレイジーだけど美しい。それがスペイン映画。
↓やばいスペイン映画記事↓
↑スペイン制作のアメリカ映画。
↑メキシコ映画ですがルイス・ブニュエルはスペイン出身でスペイン語なので入れました。あとスペイン映画といったらギレルモ・デルトロ作品!
スペイン映画にハマったのはこれと「私が生きる肌」きっかけだった。