今日は超自分語りです。
私がhideを知ったのは13歳くらい?のときで、そのときにはすでにhideはこの世界にいなかった。hideの享年は33歳だから私にとってはものすっごく大人で、彼が遠いのは単に年齢のせいだと思っていた。
奇抜なファッションも音楽も声もまだ若い私には希望でしかなくて、hideの死を悲しむというよりも、hideが映っている映像や残されたCDによってどんどん世界が明るくなっていったから「hideってすごいんだなぁ」とぼんやりと思うだけだった。
hideMUSEUMには何回か足を運んで、Cafe Le PSYENCEではhideパフェを食べ、LEMONedSHOPではサイコベアーのグッズをいっぱい買った。
このTシャツかわいすぎて買おうか迷っている・・・。
そんな若かった自分も年々hideが永遠になってしまった年齢に近づいて、近づくたびにhideというアーティストからhideという一人の人間を感じられると思っていた。
でも、そんなことは全然なくて、近づけば近づくほどhideという人間は実際に存在したのだろうか?とさえ思えて来るのだった。
こうやって他人を神格化してしまうことが、相手にとっての自由を奪うことに成りかねないのは承知しているのだけど、どーーーしても信じられないのである。
ときに、天才は孤独というけれど、天才が人の人生を意図せず変えてしまう影響力を持つ人のことを言うなら、やっぱりどうしても同じ人間と思えないのは無理のないことのような気がするのです。
そして一つだけ分かったことは、hideを初めカリスマと呼ばれる多くの人は「自由」を掲げながら決して個人的な人間ではないということです。だって、ほんとうに自由で自分のことだけを考えている人間は人の心には触れないからです。
人の心に触れる、というのはちょっと難しいですが、人々の集合意識に触れるっていうことです。自分の生き方や行いで人を導く・・・と言ったらいいのか、とにかく個人でも社会でもなく集合にアクセスするわけです。
私はhideに出会い、たくさんのものや色を教えてもらいました。彼はもうこの世にいないのに、今でも私に発見をくれます。そして今年の発見は、私は彼のように集合にアクセスできる人間ではなく非常に個人的な人間なのかもしれないという気付きでした。
まだ若い時に気付いていたら絶望の淵に立っていたかもしれませんが、彼の年齢まであとちょっと・・・となった今気付いたからこそそれは別に不幸でもなく、ある視点からすれば幸せなことであるのだろう、と思いました。
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とはいえ、彼の年になるまでには誇れるような何かが、誰かの手助けになれるようなそんな人間になりたいです。