深夜図書

書評と映画評が主な雑記ブログ。不定期に23:30更新しています。独断と偏見、ネタバレ必至ですので、お気をつけ下さいまし。なお、ブログ内の人物名は敬称略となっております。

【映画】グラスホッパー~これは人間の欲望のメタファーです~

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≪内容≫

伊坂幸太郎のベストセラー小説を『脳男』の瀧本智行監督が映画化したサスペンス。東京・渋谷。殺された婚約者の復讐を誓う元中学校教師・鈴木、自殺専門の殺し屋・鯨、孤独な若き殺し屋・蝉の3人の男たちが戦いの渦に呑み込まれていく。

 

 この映画のなにが辛いってバッタとGがでるところですね。Gの方はほんのちょっとですが、バッタはけっこうな時間ドアップで画面を占領します。もう一度言います。ドアップです。

 いやこれはけっこう虫嫌いにはトラウマになるんじゃないかと思うほどのドアップなのでね、ほんと気をつけてください。マジで。ほんとに。話しはいいんだけどね、ほんとうにもうやばいドアップだから。顔面が。正面で。

 ※この記事の中にはありません。

群衆相で溢れる現代

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 物語は愛する妻をひき逃げされた夫が、事件の発端となった裏社会に飛び込んで妻の敵を討つ、という内容です。けっこう筋書きはシンプルで、裏社会なので殺し屋も出てきます。まあ、話のあらすじ・・・というか内容はこうです。そして重要なのは、この作品のなかでこのようなやさしい光が当たっているのは妻との回想シーンのみだということです。

 

 で、タイトル「グラスホッパー」は英語で昆虫のバッタのこと。そして本作のキーポイントはこのバッタの生態です。

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  事件当日はハロウィンのイベントが渋谷で行われており、スクランブル交差点は歩行者天国と化していました。そこにトラックが突っ込んだのです。

 かぼちゃのお化けに扮した子供を守ろうとした妻は冷たいコンクリートの上で息絶えました。その他にも多数の死者・けが人がいましたが、生存していた人間はスマホで死体を撮ってラインに送ったり、と救急車の妨げになるほど現場に密集していました。

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密集したところで育つと群衆相と呼ばれる変種になります。
色が黒くなり羽が伸び、凶暴になるんです。
足りなくなった餌を得るために。


人間も同じです。
過剰なまでに情報が密集する今の世の中では
人間も欲望を満たすために変種になる。
群衆相のバッタのように凶暴になるんです。

 

 冒頭の死体に向けられたスマホには黒くて大きなバッタが飛びつき、やがて無数のバッタが画面いっぱいに飛び回ります。これは、人間の欲望のメタファーです。バッタが縦横無尽に空を駆け巡るように、情報は世界さえ超えて飛んで行きます。

 

 おそらく、渋谷ハロウィンのように無数の人間が集まると害悪が生まれること悪も組織になるとまったく関係のない一般人を巻き込む害を撒くことを群衆相のバッタにかけており、反対の孤独相に関しては主人公と妻の最小数の組織と単独の殺し屋を当てはめていると思います。

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  この映画で一番おもしろかったのはなんといっても(浅野忠信)(山田涼介)の単独殺し屋の苦悩とタイマンでしたね。

 恐らく鯨は「世界でもっとも孤独な鯨」から、蝉は一週間だけの希望という点から取ったのではないですかね。

 孤独のままさまよい続けた鯨と、若くして命を落とす蝉は名前通りの運命です。この時点で、孤独相は主人公を残してすべて死亡しています。

 しかし、不可解なのは主人公の敵である男はもう一人の殺し屋に殺されるのですが、この殺し屋・槿(あさがお)は、ある組織の一員なのです。

 

ムクゲ - Wikipediaより

根が横に広がらないため、比較的狭い場所に植えることができる。刈り込みにもよく耐え、新しい枝が次々と分岐する。 

 

 さきほど、群衆相=組織に当てはめましたが、すると主人公の敵をとった槿もまた群衆相になるのでしょうか?

 この点に関してはどちらともとれると思いますが、私は槿たちの組織はまさしく「新しい枝が次々と分岐する。」を体現しているんじゃないかなぁと思うのです。なので、この組織は群衆相(バッタ)ではなく思想の擬人化なんだと思います。

 複数の人間が集まって一つの組織を作るのではなく、一つの思想が分岐していった塊だから孤独相の殺し屋のような最後にはならなかったのかな・・・と。

グラスホッパー

グラスホッパー

 

  ゴキブリとドアップの黒いバッタが出てくるのは、最後の回想シーンです。孤独相の主人公と妻の部屋に現れたGに夫は脅え、妻は外に逃がした。そして、その光景を思い出している夫を黒いバッタはじっと外から見ている。

 

 このラストシーンけっこう意味深いなぁと思うのは、世の中で人から石を投げつけられてしまいがちな人間も孤独相の家に入れば殺されるのではなく新しい場所へ誘導される。

 そして、黒いバッタが意味する弱肉強食の世界で生きてきた人間も孤独相の家に一人でやってくる(今いる世界に疑問を持っている)こと、またそこの世界では自分に向けられる視線はないものの争いもないということ(だから自分のタイミングで飛び立てる)ってことを表しているのかなぁと思うのです。

 

 伊坂幸太郎原作の映画けっこう観るんですが、びっくりするくらいヘビーな内容なのに割と明るい終わりにするのがほんとうにすごい手腕だと思う。

 

  これとかタイトルにそぐわない悲しい内容だけど、ほんと名作。

アヒルと鴨のコインロッカー
   

そう考えると、本作では人間はGかバッタになってますね。