
≪内容≫
芥川賞作家・藤沢周の小説を、綾野剛と村上虹郎の共演で映画化。剣の道で一目置かれる存在だった矢田部研吾は、警察官の父とのある一件から進むべき道を見失い、剣も棄ててしまう。そんな中、光邑師範が、ひとりの少年を研吾の下へと送り込む。
なんか原作で感じた内容とちょっと違ったように思いました。
こういうのあるから原作と映画の両方を見たくなっちゃうんですけどね。
小説のほうではアドレナリン爆上がり!って感じで感情がものすっごい上がったり下がったり感動したり怒ったりと大変でしたが、映画は一貫している感じです。綾野剛演じる矢田の再生の物語。村上虹郎演じる羽田に関しては小説のほうが書かれていると思います。
自分の弱さが他人を壊すこともある
主人公は剣の道で一目置かれる存在だった矢田部研吾。彼の剣の道は父親とつながっており、言い換えれば剣の道なくして父親とは繋がれない状態であった。
そんな二人を繋いでいたのが母親だったが、母が死んでからは二人の関係は一気に悪化した。警察官だった父親は酒に逃げ、研吾に当たるようになり、研吾もまたそんな父に嫌悪を募らせていった。
そして、研吾の剣が父の脳天に直撃したことにより、父は植物状態となった。一人きりになった研吾は剣を捨てアル中になってしまう。
この親子の行く末を案じた光邑師範が一人の少年と研吾を繋いだことにより、物語は加速していく。
お前は将造とよく似とるよ
将造は最後まで自分が弱いことを認めようとはしなかった
剣道事態に逃げおった
お前は親父に逃げとる
同じことだ
父・将造は警察という仕事で出世できなかったこと、あるいは仕事がうまくいってなかったのかもしれない。その事実を将造は認めることができなかった。光邑師範がいうところの剣を受けることができなかったのだ。
その矛先は剣道事態だけでなく息子の研吾にも向かった。
誰からの指摘も認めることができなかった父親が唯一受けたいと思ったのは研吾の剣だけだったのだ。
しかし、研吾はその一太刀が父を植物状態にさせたことの罪を背負う。背負うとともに、殺したいと願っていた父親を実質殺すことができたのに生まれてくる後悔と恐怖におびえていた。
自分の弱さを誰かに任せる。その父親の弱さが研吾を強くしたし破壊した。そのことを知っている光邑師範は(おそらく)師弟を救えなかったことを後悔しているため、今の状況を裁ち切るために村上虹郎演じる羽田に研吾を斬らせたのだ。
剣を「競技」であると見なしている部員に対し、羽田は「斬り合い」だと思っていた。真剣にぶつかれる何かを剣道に託していた。
一方で、研吾は「競技」であることを許されず「斬り合い」を強いられた。剣道を通して父と会話をしたくても「斬り合い」でなければぶつかることを許されなかったのだ。
光邑師範は人を殺すことを剣道としているわけではないのであろう。「斬り合い」が生んだ悲劇の研吾と、これから悲劇を作ろうとしている羽田の両方に、剣の道が相手や自分を殺すものなのではなく、相手も自分も生かす道になることを、二人ともに教えている。
そうだ、己だ。自分だ。その己という、憎しみやら悲しみやら、うじゃうじゃとしたもんを抱えている己自体を斬る。己を活かすも殺すも、この己次第で、まずはその己を徹底的に否定する。これが、殺人刀。そして、自由になったところで、己を活かすのが、活人剣
剣が振り下ろされる先は常に自分自身なのである。
剣道だけじゃなく、人は自分の弱さを他人のせいにするし、比較して自分を上にすることもしてる。そのことに気づきながら見ないふりすることももちろんできるし、血を流しながらそこに絆創膏をあてることもできる。
全部まやかしの自意識過剰だと思っても、それでも自分自身で自分を差別したり蔑んでしまうことから抜け出すのはとてもとても難しい。