《内容》
クリスチャン・ディオールの死後、21歳で後継者に指名されたイヴ・サンローランは初めてのオートクチュールコレクションを成功させる。イヴの輝くような才能は、人々を魅了し、アーティストの後援者として名を成していたピエール・ベルジェも、その一人だった。ピエールはイヴをデザインに集中させるためにすべての雑務を引き受け彼を支える。しかし召集までは避けられず、イヴは陸軍入隊から1カ月経たない内に神経衰弱のため精神病院に入院。除隊後、病気を理由にディオール社から契約を打ち切られる。
戦おうとするピエールに、イヴは「僕たちのメゾンを持とう」と提案する。「デザインで自分を表現するために、君と生きていく」と宣言するイヴに、ピエールも心を決める。
ファッション界の人の人生ってすごくかっこいい。
「永遠の反逆児 ヴィヴィアン・ウエストウッド」の記事を読む。
たぶん芸術作品と似てるからだと思うんですよね。
人生は
誰だって退屈なもの
実際に天才に出会ったことはないけれど、どんな人間だって同じだと私は思っています。金持ちだろうがIQが抜群に高かろうが、根本的な搭載機能は同じなはず。
で、人生における役割とか与えられるものもそんなに違いはないと思っているんです。こういう歴史に名を残す人は、ただその退屈を表現に置き換えただけ。
退屈を恋愛に置き換える人もいれば、ココが言うように貴族たちみたく社交界やらなんやらで置き換える人もいる。
この時代のフランスって退屈絶頂期だったんですかね?
もはや自分の情熱とか感覚とかさえ、退屈から目をそらすために燃え上がっている気になってるだけなのでは?と思えてくるのですが、とにかくまあ、こういう偉人たちが偉人たちである所以は退屈を表現に置き換えて私たちの退屈を吹き飛ばしてくれるからだと思うのです。
ココのときもそうだったけど、燃え上がる情熱があっても決して一人では成功しないのが社会。
必ず理解者が必要でチーム戦になるわけです。漫画だってアニメだってチームですよね。先生がいてアシスタントがいる、編集さんがいるし、アニメだっていろいろ担当分けあるようですし、映画だって撮影チームですし、とにかく社会に挑むには情熱と才能だけでは無理で人数が必要なわけです。
で、イブにとって最大の理解者であり相棒がピエールであった。ピエールはイブの才能を信じ彼の精神やブランドを守り続けた。
イブは退屈すぎて死ぬ・・・の言葉通り、満たされない時間のほうが多かったのだろう。何もかもが手に入ったと思われるような境遇になっても、いつも何か不満そうなイブは、精神的に不安定なことも多かった。
それでもピエールはイブのブランドもイブとの関係も守り続けた。
この映画はイブの一生というより、ピエールから見たイブの一生・・・という感じなのでイブがどう思っていたかとかどう感じていたかとか、ココのときのような強い言葉というのはありません。
だけど天才とはどんな人のことを言う?と問われたら、どこまでいっても満足しない人、というのが今の私にはしっくりくるなぁと思うほど満たされない感が伝わってきます。
何をしても満たされない。でもデザインをしているときだけそういう悲しみを感じなくて済む。こういうことを感受性が強いとか繊細というのなら、確かに芸術と感受性は繋がっているのかもしれない、と思ったのでした。