深夜図書

書評と映画評が主な雑記ブログ。不定期に23:30更新しています。独断と偏見、ネタバレ必至ですので、お気をつけ下さいまし。なお、ブログ内の人物名は敬称略となっております。

呪われた町/スティーヴン・キング~屍鬼との違いは絶対的な悪であること~

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《内容》

幼い頃を過ごした町に舞い戻った作家ベン。町を見下ろす丘の上に建つ廃墟同然の館は昔と同様、不気味な影を投げかけていた。少年の失踪事件、続発する不可解な死、遺体の紛失事件。田舎の平穏な町に何が起きているのか?ベンたちは謎の解明に果敢に挑むのだが…。「永遠の不死」を体現する吸血鬼の悪の力に蝕まれ崩壊していく町を迫真のリアリティで描いた恐怖小説。

 

  このブログを始めたきっかけは、小野不由美の「屍鬼」を読んだから。

屍鬼(一) (新潮文庫)

屍鬼(一) (新潮文庫)

 

「屍鬼」の記事を読む。

↑記念すべき初記事。この本を読んでもーすごくすごく誰かに話したくなってね・・・。で、屍鬼はこの「呪われた町」のオマージュなんです。いつか読みたいと思って4年も経ってしまいましたが、その願いを叶えました。

結論・どっちも面白すぎる・・・!

 

絶対的な悪と神父の戦い

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 まず、この物語は吸血鬼がいて吸血鬼に襲われた者は数日間人間として倒れ、貧血で死んだあと、ゾンビとなりよみがえり、近しい人物を襲う・・・というループで無限にゾンビが生まれるというホラー物語。

 

 少年時代に四年間暮らした街に戻ってきて、いったいなにをしようというのだ。取り返しのつかないほど失われてしまったものをふたたび取り戻そうというのか?少年のころ歩いた道をいまふたたび歩くことによって、どんな魔力がよみがえるというのか?それらの道路もいまはアスファルトで舗装され、すっかり整備されて、観光客の捨てたビールの空缶が転がっていることだろう。白い魔術の黒い魔術もともに死んだ。

 

  主人公は小説家のベン。

 彼はこの街に苦い思い出があった。彼がこの街にいた少年時代、丘の上の不気味な屋敷に入った時、彼はそこで首を吊った男を見たのだ。その記憶が彼の中に根付き、今もまだ生きていた。愛する恋人を失い、もう一度忌々しい記憶と向き合おうと街に戻ってきたベンだったが、ちょうど時を同じくしてあの屋敷に戻ってきた人間がいたのだった・・・。

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十字架・・・パンとぶどう酒・・・告解聴聞室・・・そんなものはみな象徴にすぎん。信仰がなければ、十字架はただの木だし、パンは焼いた麦だし、ぶどう酒は酸っぱいぶどうにすぎない。もしもお前が十字架を投げ捨てていれば、いつかはわたしを負かしていただろう。ある意味でわたしはむしろそうなることを望んでいた。わたしが真の好敵手といえる人間と出会ってからすでに久しい。お前よりはあの少年のほうが十倍も勇敢だよ、偽司祭

 

  屍鬼も肝は寺院の若御院「室井清信」であり、神に近い人間である。そして屍鬼における悪が孤独な少女なのに対して、本作での悪は絶対的な悪なのだ。イメージでいうと「It」のペニーワイズである。

「IT」の記事を読む。

  だから、神父は迷わない。だた、彼を迷わせるのは信仰である。この物語、「呪われた町」も「屍鬼」もテーマは「信仰」なのだと思う。

 人間を人間とするのは、想像力であり信仰である。ありとあらゆるものに意味を付け、シンボルとし、システムを作り、ないをある、にするのだ。

アイスクリームの皇帝 (Poetry in Pictures)

アイスクリームの皇帝 (Poetry in Pictures)

  • 発売日: 2014/10/20
  • メディア: 単行本
 

  それに対して、あるをようだの、にするのがアイスクリームの皇帝・吸血鬼である。

 こういう白黒はっきり分ける考え方がなんとも欧米を感じるというか、だから強いんだけど、反動もきついように感じる。「呪われた町」にグレーゾーンはないが、「屍鬼」は思いっきりグレーな印象。だから迷う。その迷いで5巻まである。そして読者も猛烈に迷う。読後も迷い続ける。

 

亡者(アンデッド)に記憶はない。ただ飢えと、主人に仕える欲求があるだけだ。

 

  人間は死んでもないをあるにする。墓をたてたり、記憶に残したり、写真を見返したり、亡者にも存在を与える。

 だが、アイスクリームの皇帝はそんなまやかしを許さない。死んだようだ、は死んだのである、にしなければならない。

 アイスクリームの皇帝のこの考えを打ち砕くには、もはや信仰か怒りしかない。怒りは絶対に自分が正しい!相手が間違っている!!と思わなければ生まれない。

 神父は自分が神の加護をいついかなるときもあるのだと信じるまでもなく当たり前に思えなくてはならない。たとえ十字架や聖水みたいな司祭グッズがなかろうと自分自身は神が見守っているのだと信じなければただの人間であり偽司祭になってしまう。

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「ぼくはもう充分やったよ!」と、マークは叫んだ。「これ以上はできない!わからないの、ぼくは彼の顔を見るのがこわいんだよ!」 

 

さあ、キングと言ったら子供です!

 この物語もね、聡い少年・マークが大活躍します。たぶん、ここまで書いて思ったけど、シャイニングもそうだけど、大人と子供が一緒に戦うっていうのは、たぶん大人側が権力や力をもって子供時代の恐怖に再度立ち向かうとき、子供時代の自分として少年がいるんだろうなぁ、と思いました。

 だってもうかわいそうなくらいなんですよね。なんで子供に?って思う。大人だって逃げ出したり諦めてしまうのに、立ち向かうのが少年なの。キングの物語はいつだって、子供が恐怖と戦うし、子供時代になんとか恐怖から逃れても大人になって向き合わざるを得なくなる。

こんなホラー満載なのに面白い表現があるのもキングの好きなところで、めっちゃ笑った一文を引用します。

 

おれがあのいまいましい現場監督のやつにこってりしぼられている間に、あいつはいったいなにをしてるというんだ?告白雑誌を読みながら、チョコレートでくるんだサクランボを食ったり、テレビのホーム・ドラマを見ながらチョコレートでくるんだサクランボを食ったり、友達と電話でおしゃべりしながらチョコレートでくるんだサクランボを食ったりしてるだけじゃないか。近ごろ面だけじゃなく尻にもニキビがでてきた。そのうち面と尻の区別もつかなくなりかねない。

 

どんだけチョコレートでくるんだサクランボを食ってんだよ!!

って思いましたw日本で見たことないな、チョコレートでくるんだサクランボ。