《内容》
吉田修一原作、『64-ロクヨン-』の瀬々敬久監督によるサスペンス。12年前に起きた少女失踪事件をきっかけに知り合った孤独な青年・豪士と失踪した少女の親友だった紡。ふたりは互いの不遇に共感し合っていくが、再び同じ場所で少女が姿を消し…。
土曜日に見たんですが、日曜日起きるの辛かった…。頭痛と腹痛で。。メッセージ性の強い映画はあたるんですが、久々すぎてこうなること予測できませんでした…。
吉田修一原作映画はほんとキツイね…
逢魔が時と別れ道
物語の主人公は杉咲花演じる紡。彼女は、12年前の女児失踪事件の被害者・愛華と最後に会った人物だったため、罪の意識を持ち続けていた。もしあのとき、愛華ちゃんと一緒に愛華ちゃんの家に遊びに行っていたら・・・と。
さらに追い打ちをかけるように、愛華の祖父は紡に「なんで愛華がいなくなってお前はいるのか」「お前は幸せになっていいのか」などと、小さな子供であることもお構いなく罵る。
心を閉ざした紡は、夜の畦道で車に追われ転倒。運転手は綾野剛演じる中村豪士で、パンクしていた紡の自転車を車のトランクに乗せ、彼女を家まで送り届ける。
村に馴染めない紡は、同じくどこか浮いている豪士に興味関心を持ち始めるが、その矢先、12年前と同じ女児失踪事件が起こり、豪士は犯人として追い詰められた挙句、自らに灯油をふりかけ火を放った。
もう一つのお話は佐藤浩市演じる善次郎のお話。妻に先立たれ村に帰ってきた善次郎は養蜂の仕事をしており、村おこしとして蜂蜜を使ったデザートなどを提案する。年寄ばかりの限界集落で、あらゆる雑事も請け負っていたため、その延長で村おこしの提案を役場に届けた。
しかしそのことが村人の怒りを買い、村八分となった。善次郎が頭を下げても、村八分は収まらない。雑事は年だからやれないというくせにいじめは徹底的である。
孤独な善次郎の唯一の希望であったものも取り上げられ、善次郎はその手を赤く染め、最後は自らの腹を鎌で刈り取り自決した。
愛華ちゃん、豪士、善次郎、いなくなった人はみんな別れ道の左側を選んだ。
この映画のポイントは
- 2人以下になった途端弱体化する世界
- 真実より感情問題で犯人を作らなければならない
- 大人は自分の子供は守るが他人の子供は守らない
- 一度の失敗も許さない世界
- 大人のいじめは幼稚さに権力と知恵が+されるためかなり陰湿
1について
愛華ちゃんは1人になって誘拐された。(たぶん)
豪士は、母に置いていかれ1人になったとき事件に巻き込まれた。(たぶん)
善次郎は家族が犬以外みんな死亡してから村八分になった。
2について
愛華ちゃん事件から12年後にまた失踪事件が起きたとき、12年前怪しかったのは豪士だ!という一言で豪士は死ぬ。豪士が焼かれる炎を見て、愛華の祖父はホッとしたと告げる。
俺ぁあんとき焼け死ねばいいと思った
ケリつけねえとみんなダメんなる
誰かが罪人になれば丸く収まる誰か助けてくれって
ひどいけど、ちゃんと自分のひどさを自覚して言語化してるのが唯一の救いと思った。
3について
愛華ちゃんの祖父が紡をなじっても誰も助けない。みんな誰かの子供なのに、その親が死ぬか嫌われてたりするとその子供も煙たがられる。
4について
善次郎は自分のミスを誤ったが誰も許さなかった。不文律なのだし、相談する親兄弟もいないのに誰もやさしくない。
5について
・自分から娘を紹介したのに、その娘と車に乗っているワンシーンだけで(確かに誤解を招きそうな最悪のときだったが、あの一瞬で色狂いなどという想像をされたと思うと気持ち悪い)墓に「色狂い」などと赤いペンキでいたずらされる(やった人は怖くないのか?)
・難癖つけにきたら犬が噛んだので犬を檻に入れるように勝手に決める
・ゴミ出しのとき、善次郎のだけ持って帰れ!と書いて収集されないようにする(暇人かよ)
・自分たちで追い込んでおきながら、善次郎が山に苗を植えていると気味が悪いと通報し、台無しにする
ちなみに紡も愛華ちゃんと別れて1人になったり、夜道1人で帰ったり(このシーンリアルで怖かったわ…)1人になること多かったのですが、もうこれは運としか言えないですね。
個人的には、右側に家があったから、という風にも考えています。家は移動できない。だからこそ、これは個人の問題ではなく家や周囲の問題でもあるのだ、と考えているため。
んで、この映画で最大の気になるポイントは
結局、愛華ちゃん失踪事件の犯人は誰なの?
ってことでした。でもたぶん、この映画が伝えたいのは犯人が誰かではないので、犯人は明確にされていない。
誰にもわからないのだけど、こういう視聴者側にも爪痕残すような映画の効力として、観た側も引きずられて戻れなくなってしまうんですよね。この事件から。
なので、自分なりに考えた犯人は誰なのかってことを書いていきます。
小さいころから生きてくの弱くて
だからみんなが自分が死んでほしいって思ったんだ
同情なんかいいから
あんたもあの子に救われたんだよ
他の奴らと同じだよ
犯人は青い車の人物で、豪士は愛華ちゃんが攫われていくのを目撃したのではないかと思います。
母に捨てられたと泣いている豪士に花冠を与えて去っていった愛華ちゃんを豪士は追いかけます。なので、このラストだと愛華ちゃんと最後に会ったのは豪士となります。
そして、豪士の母親が「どうしてあんなことしたのよ?」という問いに豪士は
母ちゃん
日本来るとき言ったろ
"あそこは楽園だ"
どうして生まれてきたんだって聞いて答えられる?
どうして死んでいくんだって聞いて答えられる?
こう答えます。
たぶん、豪士は愛華ちゃんが自分に優しくしてくれたから、県外のナンバー(おそらく)に連れ去られるのを見てほっとしたのかもしれません。
なぜなら、この村で愛華も大人になったら自分をいじめる村人の一人になるかもしれないから。今このやさしいまま村から出ればずっとやさしいままの愛華だから。
日本のどこかにあって確実にここではない、生と死の苦しみのない"楽園"に彼女は行くのだ、と思ったのかもしれない。
愛華ちゃんがいなくなった当日、豪士は愛華ちゃんの祖父に怒鳴られる紡を見ていました。そして12年後、紡と再会し、あの日の少女が未だに胸を痛めつつもやさしい人に成長していることを知ります。
紡が車に忘れた財布を見て「あいかちゃん・・・」と言うのは、あの日の自分の選択(愛華も大人になったら自分をいじめる村人の一人になるかもしれないから)が間違っていたことを紡によって知ったからなのかな、と思います。そして紡を「友達」と言ったことから、ここで初めて愛華という友達を自分は裏切ったのだと、そういう感情がうまれたのかもしれない。
それにともかく豪士が犯人なら愛華をどうした?という疑問が残ります。誘拐したとして、12年もこの監視がましい村の中で監禁するのは不可能。それにお金もなさそう。殺すにしても、突発的な行動で死体を隠すほどの時間も知恵もあるようには思えない。
愛華ちゃんと豪士と青い車があの道の先で出会った瞬間が逢う魔が時だったんだろう。
村八分も、確かに昔は一致団結しなければ生きていけないことがたくさんあったのかもしれない。村一つ一つがチームとなっていたのかもしれない。その人たちが生きてきた世界の歴史を非難するつもりはない。だけど、もういいんじゃないかな、と思うのでした。もう、これから先はいいんじゃないかなって。。