《内容》
天才作家・太宰治。身重の妻・美知子とふたりの子どもがいながら恋の噂が絶えず、自殺未遂を繰り返す。その破天荒な生き方で文壇から疎まれているが、ベストセラーを連発して時のスターとなっていた。太宰は、作家志望の静子の文才に惚れこんで激しく愛し合い、同時に未亡人の富栄にも救いを求めていく。それでも夫の才能を信じる美知子に叱咤され、遂に自分にしか書けない「人間に失格した男」の物語に取りかかるのだが…。
本物の太宰治が実際どんな人物で、どんな理由があったとか、どんな子供時代だったとか、どんな気持ちでそれぞれの時代を生きていたかはわからないのですが、あくまでこの映画で感じた太宰治という人の感想を書いていきたいと思います。
やさしさと弱さが人を傷つけ、人を惹きつける
才能がどうのうという話は置いておいて、この映画を恋愛映画としてみました。
強い人って憧れられたり崇拝はされても、人に本気で恋されたり人の深い部分にコミットすることはできないと思ってます。
なぜかというと、強い人って他人が必要ないからです。他者に夢は見せても、存在価値を見出させることはできません。
その点、太宰治という人間は、女々しくてだらしなくて「私がいないとダメなのね」と思わせる力。すなわち他人に存在価値を見出させることができる人です。
加えて有名作家という力が夢も見させる。
妻子がいるのに、泣いて自分にすがる女を邪険にしない太宰。だけど、それは二人っきりの時だけで、妻子がいれば妻子を優先する典型的なク&ズなんですが、なんでこう来るもの拒まずで節操なしなのか?というの自分なりに考えてみました。
唐突ですが、この絵、絶対十字架だなぁと思いながら見てました。
太宰はなんで来るもの拒まずなのか?
お祭りで風車の音がだんだん子供の笑い声に変わり、大人数の子供の笑い顔と笑い声が太宰を包みました。
たぶん太宰は小さいころに他人から笑われた経験があるのでしょうか。その頃のトラウマが大人になり地位と名声を得た今でも太宰を脅かしているように見えました。
自分にすがる女を拒まないのは、小さいときの自分と重ねているからだと思いました。弱い自分を拒まれた過去から、あのときしてほしかったことを、今他人にする。その結果、他の人を傷つけることになっても小さいときの自分を傷つけることができなかったのではないかと思うのです。
だが、こんなやり方はほかの男の人から当たり前に非難される。物語では三島由紀夫から痛烈に批判されるのだ。
むなしくはないんですか?
何を書いたって誰も本当には理解しない
それが分かってて
何のために書くんですか?
太宰の小説は非常に女々しい。
対して三島由紀夫の小説は完璧に近い。川端康成は優しそうに見えてものすごく壁があってなおかつ暗い。
三島由紀夫と川端康成の小説は読者は完全に身を任せて読めるのだけど、太宰の小説はもっと身近だ。いうなれば太宰の小説は喜怒哀楽を浮かべながら読めるというのかな。
「バカだなぁ」と思ったり「かわいいなぁ」と思ったり、「そうそう、こういう気持ちになるのって自分だけじゃないんだなあ」って思ったりする。
んで、この能力を私はサービス精神と認識している。
「何を書いたって誰も本当には理解しないのになんのために書くんですか?」
という答えは、自分を求めている人がいるから、という言葉だと思うのです。例え、本当に理解してもらえなくても、その人を救えるのなら、その一瞬だけでもその人を笑わせられるなら、そのために自分は理解されなくても他人のために言葉を紡ごう。
そういう人だったんじゃないかなぁ、と思います。
欠点は持続力がないので、結婚とか長期的な関係の人は反対に傷つけてしまうことなのですが、明日死ぬかもしれないなら、10年後幸せになれる方法より今この瞬間の苦しみをなんとかしてほしいって思うでしょう?
そういう刹那的な優しさはトータルよくない評価になってしまうかもだけど、優しい人で、なおかつサービス精神がある人にしかできないことなんだよな、って思うのでした。