深夜図書

書評と映画評が主な雑記ブログ。不定期に23:30更新しています。独断と偏見、ネタバレ必至ですので、お気をつけ下さいまし。なお、ブログ内の人物名は敬称略となっております。

本に埋もれて暮らしたい/桜庭一樹~”考え続ける”は才能の一種~

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《内容》

旬な作家サクラバカズキの日常と、ドタバタの日々に癒しと活力を与えてくれた本の数々を紹介する、大人気WEB連載の書籍化第4弾。どんなに忙しくったって、やっぱり本がなくては生きてゆけない! のだ。

 

2011年、10年前の本なんですよね。

でも、本って新刊というカテゴリーは、読者にとっては”読了済み”か”それ以外”かだけな気がする。

その証拠に、小説というのは何年前のものだろうが面白いものは面白いのである。

 

不思議でおそろしいもの

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 わたしもよく、理屈っぽくいろいろ考えるけれども、でも小説も理屈を書いたり読んだりするものじゃない。ある現象があって、それを理論にして、分析して、とずーっとやっていると、最後に「どうしても理論では太刀打ちできない、不思議でおそろしいもの」が、ちょっとだけ、残る。それが小説の核だ。だからその一粒をみつけて糧にするために、ずーっと、ずーっと一人で考えてるのだ。理屈というのは、その一粒をみつけるため、現実をふるいにかける網でしかない、と思う。

 

 ”考える”という行為は、すべての人に備わっている普遍的な能力だと思っていたのだが、最近これはある種の才能なのでは?と思うことがあった。

 正確に言うと、”考える”というより”考え続ける”ということである。

 

 誰でも何かを問われて瞬間的に考えることはできる。5秒ほどの沈黙の後「それは・・・」と話し始める人は自分を含めて多くの人がそうだと思うし、それがコミュニケーションだと思っている。

 

 だが、作家とか作品を創るという、こと”創作”というものは、5秒でも10分でも1日でもなくて何年も何十年も”考え続ける”。

 コミュニケーションではなく、完全に一人きりの戦いだ。

 考え続けた先に答えがあるのかも分からず、その答えを自分が処理できるかも分からないまま考え続ける。

 

 それだけの忍耐力と体力の上に作品が出来上がっているのだ。だから、難解で尊い。

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 仕事にもどろう、もどろうとしながらも、頭の中で、世界中の、いろんな時代の、いろんな空気の登場人物が、いろんな言語で、親父の爪をはがそうぜ、兄ちゃんやめとけよ、ともめている情景が浮かぶ。

(中略)

 ゲラの山は減らない・・・。

 なぜなら手をつけていないから・・・(そりゃそうだ・・・)。

 いつまでも、世界に散らばる足の爪のことばかり考えて、一人で、すっげーにやにやしていた…。

 

 作家さんて面白いですよねw

村上春樹や阿川佐和子さんのエッセイもそうなんですけど、こういう物語じゃなくてに自分の日常を描くのがすっごい面白い。

とくに村上春樹の「走ることについて語るときに僕の語ること」で、マラソンの話をしてるんですが

 マラソンのラスト、応援してくれてる人の「頑張れ!」に対して「口で言うのは簡単なんだよ」と思ってた、とか走ってる最中苦しくなってくると「なんでこんなに羊がいるんだよ(怒)」みたいに思ってきた、とか書いてて面白かったw

 

 世の中、表面上のコミュニケーションが上手な人がやっぱり「サービス精神がある人」になって、寡黙な人は「自分の世界がある人」「他人に興味がない人」で決して

サービス精神を持っている、なんて言われないんだけど、本を読むと「いやぁ~サービス精神すごいな、読者を楽しませようという気概がすごい」と思うことがほとんどです。

 桜庭さんの読書日記は、自分で本探せなくなったら読むために大事大事にとっておいてます。前回はピンクのこちらを読みました。↓

www.xxxkazarea.com

 案の定、書いてある本全部読みたくなって晴れて私の悩みはなくなりました。