《内容》
職場で、家庭で、友人関係で……なんとなく”生きづらさ”を感じているあなたへ。「心が強い」とはどういうことだろうか? 「心の基礎体力」の鍛え方の第一歩は、自分の弱さを受け入れること。自分を知り、心と体の関係を知れば、強く生きるコツが見つかる。なんとなく“生きづらさ”を感じているあなたへ、自分らしく生きるためのサイエンスを心理療法の専門家が解き明かす。
本書は約20年前のもので2001年に発行されたもの。今はもっと別のやり方があるのかもしれない。こういう自己啓発系統のものも流行り廃りがあるものだと思っているので新しい視点と言うのは正直無かった。だけど、自分のしていたとある行動の名前を本書の中で見つけた。
それが「現実検討能力」だった。
現実検討能力こそが自分をフラットな状態にする
私は私だから、今の私がいる。そのことに何の理由もないし、責任もない。アヒルや白鳥も同様で、アヒルであること、白鳥であることに何の理由もないし、責任もない。だから、アヒルであることや白鳥であることにコンプレックスを感じること自体が、そもそもおかしなことだと思うのである。
「もし私が私じゃなかったらきっと今よりはマシな人生だったに違いない」
とよく私は思うものだった。そしてこの感情は100%の純度で自己卑下だった。他人は誰でも自分に比べたら立派で一番の出来損ないは自分なのだ。と本気で思っていた。
この考えこそが「甘え」であり、他人への責任転嫁であり、自己卑下することで自分を守っているだけの「自分は完璧でないことを知っている」風の"善人ぶった悪人"であることを今の私は自認している。
「私は私だから、今の私がいる。そのことに何の理由もないし、責任もない。」とあるが、その当時の私は「私が私だから、こんなことになる。うまくいかない理由は私にあるし、責任もある。」と思っていたのだ。
こんな考えだからこそ、みにくいアヒルの子である自分は「自分がみにくいからいじめられるのだ。」「自分がみんなと違って灰色で暗いからいけないのだ」とおかしなことを真剣に考えていた。
この考えが次に続く言葉に変わるのは結構大変なことであった。
つまり、大切なのは、自分はアヒルだから飛べなくてもしょうがないと素直に認めることではないだろうか。周りのせいにしたり、ひねくれた解釈をしたりせず、自分は白鳥だからと、あるがままの事実を認めることが重要なのではないだろうか。
なぜ難しいか。
それは解決できることか、解決できないことかの判断ができないからである。
自分がみにくいなら美しくなる努力を。灰色が暗く愛されない色なら黄色に毛染めする何かがこの世にあるのではないか。そうやって自分で解決する努力もせずに諦めていいのだろうか?
だっておかしいじゃない。
私が私であることに意味もなく責任もないなら、なぜ他人から攻撃されなければいけないの?なぜ辛い思いをしなければならないの?なぜあの子はよくて私はダメなの?もし意味もなく責任もなければ他人からの攻撃から身を守るために何をどうしたらいいのだ?自分を幸せにするために私は何をどうしたらいいっていうのだ?
もちろん、これは自分の能力のなさを知って自暴自棄になることとは根本的に違っている。私が言いたいのは、あるがままの姿を受け入れ、不必要なコンプレックスから身軽になった上で、自分自身を大事にしていこうということなのである。
つまり、みにくいのもいじめられるのも灰色の毛も受け入れろ、というのだ。
これを「達観」と言う。
他人のことならそうだろう。誰もが「みにくいアヒルの子」を読んだら、アヒルの子に「きみはすばらしいんだ。周りの声など気にするな」と声をかけたくなるだろう。
30歳を過ぎて、引用した言葉は真理だと思える。そして「不必要なコンプレックス」が何かというのも自分なりにアタリをつけられるようになった。
だけど、これは努力した過去があるからだ。人生には努力してもどうしようもないことがあるのだ、と体感したからこそ生まれたものだ。
本当に強い人、というのは単に達観している人のことではなく傷付いてもがき苦しんだ結果としての"現実検討能力"を手に入れた人、そしてそれを必要な時に使える人のことだと思う。
その時だけ使えても、それを必要な時に取り出して魔法みたいに使えるようになる必要がある。なぜならいくつになっても理不尽に攻撃してくる人間とエンカウントするこは避けられないからだ。
手に入れたら終わりじゃなくて、今度は所有者として管理し磨き続けなければいけない。人生とはなんとめんどくさくやりがいに溢れてるのだろうか。誰にも見えない魔法を今日も今日とて磨き続けてる人はいかほどのものか。しかしそんなことは知る必要どころか考える必要さえない。他人の人生を憂うならせっせと自分の魔法を磨き修練すべし。