《内容》
太平洋戦争の激戦地ラバウル。水木二等兵は、その戦闘に一兵卒として送り込まれた。彼は上官に殴られ続ける日々を、それでも楽天的な気持ちで過ごしていた。ある日、部隊は敵の奇襲にあい全滅する。彼は、九死に一生をえるが、片腕を失ってしまう。この強烈な体験が鮮明な時期に描いた絵に、後に文章を添えて完成したのが、この戦記である。終戦直後、ラバウルの原住民と交流しながら、その地で描いた貴重なデッサン二十点もあわせて公開する。
私、戦争の話で一番好きなのは水木しげるなのだ。おそらく戦争で人気なのは"戦闘"なのだと思う。だけど、私はよく思うのだった。例え戦争だからといって国民全員が「善き国民」になれるのだろうか?「善き兵隊」になれるのだろうか?
水木しげるの書く戦争実体験ものは私の思う戦争とあまり差がないのだ。戦争の最中でも自分の感性に突き動かされて生きているように見える。だからこそ、今を生きる人にもそこまで違和感なく読めるのではないかと思うのであった。
戦地でも幸せを感じる水木しげる
防空壕から上をみると、やってきているのはロッキードだ。戦っているのは、わずか二、三機の零戦。これではちょっと味方が少なすぎる。敵は二十機以上いる。
そういう白熱の戦いがくりひろげられているにもかかわらず、ぼくは第一線にきている、即ち"第一線"と言う感じはぜんぜんしなかった。たくさんの兵隊がいるから、別に身のキケンは感じなかったわけだ。従ってノンキな旅行者のような気持とはいかないが、それに近い気持だった。
とにかく、毎日面白いのだ。もったいないほど"幸福"な話だ。要するに、ものめずらしいというのが"喜び"なのだナ。
零戦の戦闘員の視点で見ると悲しいかな。守っている仲間の一人はこんなに悠長なのだ。一致団結とか挙国一致とか、言葉とは希望や願望でしかないのだ。例え傍目からみたら言葉通りの行動に見えても本当に一つになることなんてできないのだ。だから戦争なんて意味がないんだ・・・民族浄化も民族統一も言葉だけ立派で永遠に果たされることなんてない空虚な言葉に過ぎないのだ・・・と悲観的になり、
一方で普段目にすることのない「社長の言葉」を年末聞いているフリをして目の前に用意された忘年会のピザと寿司しか頭になかった自分を思い出した。
個人としての自分と関係ない人間に全く興味を持てないところは水木氏にシンパシーを感じた。
竜谷大学を出たとかいう兵隊(三十歳位だったが初年兵だった)の高尚な哲学の話を聞きながら、ぼくはひたすらパンの実を食べた。三個目から四個目に入るとき"哲学者"は手を出したが、ぼくはパンの実に夢中だったから気づかなかった。
五個目を口にした時、哲学者のイカリが爆発した。「お前ばかり食うじゃないか!!」といわれて気づいたが、十個の大きなパンの実を一人で食べようとしていたのだ。
仕方なく六個目は"哲学者"に渡した。
パンの実という果実があり、果肉の中に栗のようなものが入ってるらしい。それを焼いて食べるとおいしいらしく水木氏はそれを夢中で食べた、と言う話。
前回はバナナの話に感動したが今回はパンの実。
しかし負傷した水木氏には原住民のお見舞いがありバナナを調理したものやら何かと待遇してもらったとのことで、水木氏のコミュ力の高さに今回もびっくりするのであった。
基本的に百聞は一見に如かず精神の私ですが、戦争だけは永遠に百聞のままでありたいと思っております。果たして自分がその状況になったら幸せなんて感じられるか?なんて考えもなくなるくらいファンタジーになってほしい。