《内容》
教員生活の挫折、病魔――絶望の底へ突き落とされた著者が、十三年の闘病の中で自己の青春の愛と信仰を赤裸々に告白した心の歴史。
なにかの記事かamazonのコメントかなんかで「読書に興味を持ったのは三浦綾子の氷点。娘を殺した犯人の子供を養子にするというとんでもない話だった」みたいなものが目について、いつか読もう読もうと思いながら時が過ぎ、スタバでPC開いていたときだった。
大学生のような若い男の子とサラリーマン、ブロガーのような身ぎれいな女性が全員PCを広げているカウンター。
そこにやってきた真面目そうな若い男の子。高校生にしては落ち着いていて、でも大学生ほどチャラくない。大学生になりたてなのだろうか。どこかあか抜けておらず、家族の匂いが染みついていそうな純朴な青年。
彼もPCを取り出すだろうと思った矢先、なんと彼がリュックから取り出したのは「氷点」だったのだ・・・。
昭和57年に初版が発行された「氷点」。なんと40年も前の作品だ。時代を超えて読み続けられてる作品を生んだ三浦綾子の自伝「道ありき<青春篇>」。
彼女の感情を正確に言葉に変換する力。怒りを持ち続けながら病と闘う強さ。私はくよくよしいなので、このような強い女性にあこがれるのだった。
敗戦が齎したモノ
なぜなら、わたしは教師である。墨でぬりつぶし教科書が正しいのか、それとも、もとのままの教科書が正しいのかを知る責任があった。
誰に聞いても、確たる返事は返ってこない。みんな、あいまいな答えか、つまらぬことを聞くなよ、というような大人ぶった表情だけである。
「これが時代というものだよ」
誰かがそう言った。時代とは一体何なのか。今まで正しいとされて来たことが、間違ったことになるのが時代というものなのか。
七年間教えてきたことが、敗戦を気にすべてひっくり返る。今までこうだと教えてきたものを黒く塗りつぶすよう生徒に指示する一方、自分は正しいことは何なのかも分からないのだ。何が正しいのか分からないまま教えることはできないと教員生活に別れを告げる綾子だったが、次に彼女を襲ったのは肺結核であった。
わたしは、人の心を大事にするということがどんなことか、まだわからなかった。愛するという男には、愛しているとわたしも答えた。それがどんなに悪いことかということなど、考えてもいなかった。なぜなら、自分自身、生きるということが、どういうことかわからず、目的もなくただ生きていたから、他の人々もまた無目的に生きているに過ぎないものに思えた。
綾子の周りには常に男子があり、彼女は妖婦とさえ呼ばれていた。しかし当の綾子は愛とはなんぞや?という迷いの中にあったので、その実彼女は誰も相手にしていないのであった。
そして何より、敗戦によっていきなり変わってしまった世界が綾子を死へと誘っていた。当時の綾子は生きるでも死ぬでもないただ惰性的に息をしているといった状況であった。真面目な綾子はそんな自分のことも自覚しており、すべてにおいて投げやりな自分と自殺という行為を重ねてみるようになっていった・・・
だが、そんな綾子に生きるということを自らの人生をもって教えてくれたのが幼馴染の前川正青年であった。
「綾ちゃんは、もうぼくなどを頼りにして生きてはいけないという時にきているのですよ。人間は、人間を頼りにして生きている限り、ほんとうの生き方はできませんからね。神に頼ることに決心するのですね」
著者・三浦綾子はクリスチャンではあるが、最初は「クリスチャンってなによ!善人ぶって!」という悪態を堂々とついていた。
彼女は常に疑問を持ち、怒りを持ち、そして苦しみを抱えていた。「あの人は若い」と言われる人がいるが、こういう人は内に秘めた怒りを絶えず燃やし続けているのだと私は思っている。
綾子が執筆活動を始めたのは39歳の時だった。それまで歌を作ることはあれど物語を書きあげた時は肉体的には決して若くない年齢である。
しかし、アーティスティックなものは年齢ではなく疑問や怒りに体力が+されて出来上がるモノだと思っているので、綾子の場合怒りと疑問を絶えず燃やし続けていたのだろうと思う。
年を取ると怒るより諦めてしまった方が早いからついつい楽な方にいってしまうんだけど、こういう本を読むと触発されて若返った気になります。