深夜図書

書評と映画評が主な雑記ブログ。不定期に23:30更新しています。独断と偏見、ネタバレ必至ですので、お気をつけ下さいまし。なお、ブログ内の人物名は敬称略となっております。

積木の箱/三浦綾子~地獄とは、もう愛せないということだ~

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《内容》

親と子、教師と生徒の絆を深く描く問題作。

旭川の私立中学校に赴任した教師の杉浦悠二は、生徒のひとり、佐々林一郎の暗い表情が気になっていた。じつは一郎は、実業家の父を持つ裕福な家の息子であったが、姉だと信じていた奈美恵が父・豪一の愛人だったことを知って以来、すさんでいたのだった。悠二は一郎の力になりたいと何かと尽力するが、一郎は全く心を開かない。それどころかますますすさんでいくのだった。

 

 三浦綾子の小説にドハマりしている。小説家は同じテーマを手を変え品を変え訴える。三浦さんが訴え続けるのは「許すこと」だ。人は愚かで過ちを犯す。その罪の汚さに耐えきれず自ら苦難の道を進もうとする。「許すこと」は最も難しく答えのない我々人間に与えられたイシューである。

 三浦さんの小説を読んでいるとそのようなことをよく思う。

 

愛することとは気づくことである

 

 自分の息子に、叩きのめすようなショックを与えているような人間は、それにふさわしい面魂を持っていてくれたほうが、悠二には安心できた。豪一をみて、悠二は人間というものの底知れない恐ろしさを感じないではいられなかった。

 

 主人公は旭川の中学に着任したての杉浦悠二悠二の生徒の一郎にはどこか影があり、その一郎が唯一心を許しているように見える久代は、悠二が助けた少年・和夫の母であった。

 

 中学三年生という多感な時期に自分の姉の一人・奈美恵が実の兄弟ではなく父・豪一の妾であり、それを知りながら一緒に暮らしている両親に不信感と不潔さを感じ非行に走ろうとする一郎。

 その一郎を止めるのは小学生の和夫だった。母一人子一人ながら久代の愛情を一心にうけた和夫は誰にでも優しく人懐こく、一郎の心の傷を癒した。

 

 一郎は久代と一郎だけが信頼できる人たちだと心のよりどころにするが、実は久代には誰にも言えない秘密があったのだった。

 

 悠二は、今夜佐々林家を訪ねて見ようかと思った。だが、恐らく徒労であろう。悠二は二度訪ねた佐々林家を思った。豪壮な邸宅に反比例して、何と寒々とした空虚な家であろう。人の心や、愛情よりも、世間体や、名誉や、地位や、そして金が何よりっも大事な人種なのだ。そこに育った一郎は、豪一やトキの生き方に反撥しながらも、次第にスポイルされて行くのだろう。

 (あの親たちは、子供を毒するだけなのだ)

 悠二は心からそう思った。

 

 一郎は父である豪一が幼かった奈美恵を襲った事実と、自分が奈美恵を異性として意識してしまっている現実から、豪一の血のせいで自らも汚れているのだと躍起になっていた。豪一を憎む一方で、豪一と同じように奈美恵に欲情する自分を裁くためには、豪一を裁きの場所に立たせなければならなかった。

 

 一郎は万引きや放火を行い自死も考え、とにかく佐々林家に傷をつけ豪一に一矢報いたいと暴走していた。

 担任の悠二は万引きを見つけたが、放火は一郎からの自白を待っていた。しかし、一郎からの謝罪はなく悠二は放火の責任を取るという名目で学校を去ることとなるのだった。

 主人公の悠二は絶対的な立場ではない。いつも迷っている。時に、一郎の姉のみどりから教えられることもあり、さきほど引用した心情のように諦めることもする。

 

 結局のところ、一郎の問題は一郎自身が向き合わなければいけなくて、周りの人間ができることなど限られている。一郎が自分で気づき、罪と向き合うまでの物語が本書である。

 

 「海辺のカフカ」の主人公が悪である父親と対決するのと同じように、この物語の勇者は一郎であり悠二は見守り役なのだ。

海辺のカフカ/村上春樹の記事を読む。

 

 ラスト一郎が自分の罪の重さに耐えきれず真実を告白するシーンでは涙がこぼれてしまった。一郎が泣き叫びながら走るシーンが勝手に脳裏に浮かんでくる。

 

 タイトルの「地獄とは、もう愛せないということだ」とはドストエフスキーの言葉であるようだが、一郎の「もう誰も愛せない」という境地、つまり自分にかかわってくれる悠二も姉のみどりも遠くに行き、久代は拒絶し孤独になった状態で、一郎の地獄行きを救ったのは豪一と血のつながった子供である和夫なのだった。

 父の血のせいにしようとしていた一郎だが、目の前にいる異母兄弟の和夫の純粋さに、一郎は自分の愚行が父のせいではなく自分のものであると理解する。瞬間、呵責の念が雪崩のごとく一郎を襲う。一郎は許しを乞うように自分の罪を告白するのだった。