深夜図書

書評と映画評が主な雑記ブログ。不定期に23:30更新しています。独断と偏見、ネタバレ必至ですので、お気をつけ下さいまし。なお、ブログ内の人物名は敬称略となっております。

彼女の思い出/逆さまの森/サリンジャー~初恋を叶えるためには相手を幽閉するか自分もおかしくなっちまうしかなかった~

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《内容》

サリンジャーの輝けるエッセンスを示しながら、本国では出版されないままの中短篇を集成!
これが最後の「9つの物語(ナイン・ストーリーズ)」! いくつかの映画の題材になるなど、今なお注目を集める伝説の作家J.D.サリンジャー。 第二次大戦前に留学したウィーンで出会った美少女、謎の女とともに行方不明になった天才詩人、少年が見てしまった悲劇の黒人ジャズシンガー……。グラース家シリーズの〈無垢〉や、『ライ麦畑でつかまえて』の〈いんちきな世界への異議申し立て〉などに繋がる、サリンジャーのせつなく、苦く、巧みで、美しい名品を清爽な新訳で刊行!

 

 サリンジャーって本当に文章がうまいと思う。いや、何といえばいいのか、語彙力ないので、と逃げていいだろうか。"うまい"としか言いようがない。ただ、読者のページをまくる指先を操ることだけでなく読後に残される切なさ、読み終わったあと自分の何かが変わったり、生まれたり、削がれたりするような、そういう神秘的な体験。

 

 サリンジャーは多くの作品を残したわけではないけれど、繰り返し読むことで何度でもその時の自分に"適した"体験ができる。これを才能と言うのか・・・、サリンジャー・・・かっこよすぎる。

 

逆さまの森

 

 ところが彼は突然、目が痛いのか激しくまばたきをして彼女をさえぎった。酒など一滴も飲んでいない、いたって理性的な男のような口調でいった。「コリーン。いいかい、ぼくは逃げられないんだよ」

 

 本書の中から最後の「逆さまの森」を紹介する。

 

 主人公コリーン初恋の相手レイモンド・フォードと再会し結婚するが、フォードはフォードに詩を見てもらいたいとやってきたバニー・クロフトと一緒にかけおちしてしまう。

 

 一流の詩人となったフォードはクロフトの作品を酷評した。あまりの冷たさにコリーンはクロフトを不憫に思い、何かとクロフトの面倒を見てやった。しかし、結果はこれだ。コリーンは何とかフォードの居場所を探し出し電話をかける。電話にでたクロフトは謝罪はするものの、何の悪気もない明るい声で久しぶり!会いに来てよ!とはしゃいでいる。フォードは出ない。頭がおかしくなりそうなこの物語の作者はフォードだった。

 

いいたいのは、フォードはとっくの昔に、きみが帽子を元通りにすることにかけては世界一だということがわからなくなっているってことだ。フォードほど詩の深淵に近づいた男が、女の子が帽子を元通りにする素晴らしさに気がつく平凡な男の能力をそのまま持っているはずがないんだ

 

 同僚のウェイナーはコリーンがフォードと結婚する前、彼と結婚してはダメだ、と忠告していた。フォードはコリーンのことを好きでも愛してはいないのだ、と。

 過去、二人がタクシーに乗ったときの話だ。ウェイナーの突然のキスでずれた帽子をコリーンが両手をあげて元通りにしようとして運転手の写真の上の鏡を見た時の話。

 

 物事を正しい場所へ戻すには、正しい場所を知っていなければならない。フォードはすでに正しい場所を見失っている、いや、失っている。好きだから、愛しているから結婚する、その正しい価値観で生きるコリーンを、断る理由がないからか断る理由を考えることを拒否するために結婚するフォードでは幸せにできない、そうウェイナーは言ったのだ。

 

 だがコリーンにはその意味が伝わらなかった。愛を知っているコリーンは、愛を知らないということを知らないからだ。

 

電車で切符を買うたびに、なんで大人料金を払わなくちゃいけないんだろうと思ってしまう。一瞬、だまされたようなー詐欺にあったようなー気がするんだ。この手に普通の大人の切符があるのをみるとね。十五歳になるまで、母親は車掌に、この子はまだ十二になっていないんですっていってたんだ

 

 再会したときのフォードは煙草も酒も知らず、まだ自分が子供時代から逃れられていないのだとコリーンに告白した。だが、クロフトの家の中にいたフォードは酒の入ったグラスを手に酔っぱらっていたのだ。

 

 コリーンとフォードが最後に会ったのは冷たい雪が降る冬だった。コリーンの11歳の誕生日だった。その後コリーンは紆余曲折あれど大人になった。そしてフォードも大人になったと思っていた。二人は同級生として同じ世界で成長したのだと思っていた。

 

 しかし、フォードの生きる世界はコリーンとは真逆だった。肉体だけが共通の世界で出会っただけでフォードの精神は幼少期に形成された"逆さま"の"森の中"で今もさまよっていたのだった。

 

 コリーンと出会った時のフォードは"逆さま"の"森の中"にいたのは半身だけであった。だが、その半身もクロフトによって森の中に戻されてしまったのだ。幼少期から抜け出せていないという自覚の象徴であったお酒を飲んでも幼少期から抜け出せない事実は、フォードに「ぼくは逃げられないんだよ」という言葉を吐き出させたし、この現実を呼び込んだのは、同情心からクロフトとフォードの仲を取り持ったコリーンであった。

 コリーンは二度、フォードが逆さまの森へ行くのを見送ったことになる。例えクロフトを回避しても何年か後に同じような出来事が起こるだろう。コリーンがフォードと一緒にいるためにはフォードを幽閉するか自分もおかしくなっちまうしかなかった。コリーンがフォードを好きになった理由とときめき続ける理由が純粋かつ分かりみ深すぎて、この叶わない初恋が切なすぎる。この作品、ほんと好きしかない。