深夜図書

書評と映画評が主な雑記ブログ。不定期に23:30更新しています。独断と偏見、ネタバレ必至ですので、お気をつけ下さいまし。なお、ブログ内の人物名は敬称略となっております。

夜の樹/カポーティ~彼女は私の壊れたイメージの総体であり、彼女を殺すのは私なのだった~

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《内容》

ニューヨークのマンションで、ありふれた毎日を送る未亡人は、静かに雪の降りしきる夜、〈ミリアム〉と名乗る美しい少女と出会った…。ふとしたことから全てを失ってゆく都市生活者の孤独を捉えた「ミリアム」。旅行中に奇妙な夫婦と知り合った女子大生の不安を描く「夜の樹」。夢と現実のあわいに漂いながら、心の核を鮮かに抉り出す、お洒落で哀しいショート・ストーリー9編。

 

 今までカポーティの作品読んでそこまで暗いって思ったことがなくて、映画見てもよく喋る人だしあんまり陰気なイメージがなかったんですが、この作品を読んで思った。

これは暗い。暗すぎる。「お洒落で哀しいショート・ストーリー」とか言ってるけどそんなレベルではない。これは怖い作品だと思う。正直ホラーとかオカルトみたいな怖さがある。

 

もう一人の自分との遭遇

 何が怖いってハッピーエンドが一つもない。家でじっとしてても"それ"に遭遇するし、移動時間にも、転職しても遭遇する。さらには逃げ出そうとしても車に轢き殺されたりするのだ。何かを手にするよりも大きな代償を負う。今回は本書の中から「無頭の鷹」を紹介する。

 

ただ彼の場合、そうした性質のために、はじめは風変わりなもののなかに魅力を見つけ出しはするのだが、結局、最後にはその魅力を壊してしまうのだ。それは不思議な事実だった。

 

 主人公はNYの画廊で働くヴィンセント。ある日画廊に自分が描いた絵を買ってほしいという少女が現れる。ヴィンセントは興味本位で買う権限はないけど絵を見せて、と言う。その絵には首のない女性足元に転がった彼女の頭部頭部の髪の毛にじゃれる雪の玉のような子猫頭のない胸ところの赤い鋼の爪をもった一羽の鷹。鷹が広げている翼が背景を覆っている。粗削りな絵だったが、ヴィンセントはこの絵を気に入り、個人で買うことにする。小切手発行のための住所と名前を聞くが少女はY・M・C・Aに住んでるD・Jと書き絵を置いて出ていった。

 

 ふざけた名前と住所にヴィンセントは途方に暮れる。自分の琴線に触れた少女を深く知りたいと思ったが一時はあきらめた。しかし娯楽アーケードでダンスを見ている集団の中に彼女を見つけたのだ。

 

「愛した人間はひとりしかいなかったよ」彼はいった。自分でも、その言葉は真実味があるように聞えた。「たったひとり、その彼女も死んだ」

 彼女は、同情するかのように、やさしく彼の頬に手を触れた。「あの人がその女の人を殺したんだと思う」彼女はいった。

 

 D・Jと一緒に暮らすようになったヴィンセントは彼女を愛していた。ヴィンセントは彼女のおかしなところを愛していたし、彼女のいうデストロネッリさんが誰であれ自分には関係のないことだと思っていた。

 しかし彼女はある夜、デストロネッリさんが自分を殺しに来たと言い騒ぎ出すとヴィンセントは彼女を煩わしく思うようになった。

 

彼にはもう何も残されていないように思えた。そしてようやく彼女がーああ、それなのになぜ、彼はいつも愛した人間の中に自分自身の壊れたイメージを見てしまうのか?今、明るくなっていく闇のなかで、彼女を見つめながら、彼の心は、また愛が消えていくのを感じて冷たくなった。

 

 D・Jにとってデストロネッリさんとは、自分を裏切った人たちの総称であり、ヴィンセントもデストロネッリさんなのだ。つまりヴィンセントが失った大切な人を殺したのもまたデストロネッリであるヴィンセントなのだ。

 

 そしてD・Jとはヴィンセントの自分自身の壊れたイメージ(裏切ってきた人たち)の総体なのです。ヴィンセントは今までたくさんの人を裏切ってきました。D・Jはデストロネッリさん(ヴィンセント)から裏切られないように逃げる。一方で、ヴィンセントはどこにいても鉢合わせるD・J(裏切ってきた人たち)に追いかけられる。

 

 ホストは鷹を放ち、高く舞い上がらせる。ヴィンセントは、どうせ鷹は目が見えないのだから、怖いことなどないと考える。目が見えない人間のなかでは邪悪な人間も安全なのだ。しかし、鷹は彼の頭上を旋回し、爪を立てながら、舞い降りてくる。ついに彼は、もう逃れられないと知る。

 

 D・Jが描いた絵は、ヴィンセントの未来を描いていた。ヴィンセントがどうせ見えないんだからとバカにしていた鷹(これまで裏切ってきた人たち)の下で首を落とした女性はヴィンセントである。なぜ女性かといえばD・Jが女性だからである。D・Jがヴィンセントの自分自身の壊れたイメージであるのだからD・Jはヴィンセントの一部でありつまりヴィンセントなのだ。

 

 他の話もそうなのだけど、ある日突然もう一人の自分と遭遇する。主人公たちはよくわからないけれど"それ"を拒めない。向き合わざるを得ない状況に陥る。とはいえ、後半に向かってカポーティ特有の皮肉というか口の悪さで軽快なストーリーに変わっていく。

 

 個人的にカポーティはもっと優しくなりたかったんじゃないかなぁと思う。嫌なことがありすぎたのか、嫌なことを受け取る力が大きすぎて些細なことまで受け止めてしまったのかは分からないけれど、後悔や反省がなければ"もう一人の自分"や"追い込まれる自分"をここまで徹底的に書くだろうか?と思う。

 

 カポーティの他の作品でも思うけど、自分をどこまでも悪者に導いたり人生を壊滅状態にしたりするのは、それでも"生きていける"、それでも"裏切らない人がいる"という確証が欲しいがためのカポーティなりの世界との向き合い方のように感じる。

 本書の特に「最後の扉を閉めて」は、村上春樹はこういうカポーティのエッセンスを取り入れているんだなぁとすごく感じました。特に「女のいない男たち/木野」の後半あたり。

 個人的には冒頭の「ミリアム」が本書の中では一番好きです。カポーティ、ほんと読む手が止まらなかった。ドキドキハラハラで。