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書評と映画評が主な雑記ブログ。不定期に23:30更新しています。独断と偏見、ネタバレ必至ですので、お気をつけ下さいまし。なお、ブログ内の人物名は敬称略となっております。

教養としてのアメリカ短篇小説/都甲 幸治~戦争と暴力と人種問題を内包するアメリカ~

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《内容》

戦争、奴隷制、禁酒法……背景を理解すれば、作品がもっとよくわかる

「黒猫」のプルートはなぜ黒いのか? 書記バートルビーはなぜ「しない方がいい」と思うのか? 度重なる戦争の歴史、色濃く残る奴隷制の「遺産」等、アメリカという国、そこに暮らす人々の特異な歴史的・文化的・社会的背景を踏まえて短篇小説を読み解く。これまで主にマイノリティや越境者の文学に注目してきた著者が、メルヴィル、フィッツジェラルド、フォークナー、ヘミングウェイ、サリンジャー等、アメリカ文学の「王道」といえる作家に挑む、アメリカ文学入門の新・定番!

 

 フィッツジェラルド、ヘミングウェイ、トウェイン、サリンジャー、カポーティ辺りは知っていたし、ポーの黒猫は本はないけどなぜか話を知っているし、なんだかんだア メリカ文学読んでるのかな~と思って読んでみました。

 

 本書の中のオコナーの「善人はなかなかいない」とメルヴィルの「書記バートルビー」はめちゃめちゃ読みたい!って思いました。

 

13話紹介されている中で、今回は2話紹介したいと思います!

 

英雄の物語ではない戦争

 1作目は、トム・ソーヤーの冒険ハックルベリーフィンの冒険でお馴染みマーク・トウェインの「失敗に終わった行軍の個人史」。

 

歴史において我々は常に勝者の立場からものを見ています。敗者には歴史を編纂する力がないので、これはある意味当然のことなのですが、負けた側、活躍できなかった人、役に立たなかった者にも、大義名分や意思やそれぞれの感情はあったはずだ。そのような、なかったことにされる出来事、いなかったことにされる人々の「歴史」を、公的な歴史に代わって語ること。それが文学の役割なのではないか、とトウェインは言っているわけです。

 

「失敗に終わった行軍の個人史」は、アメリカの南北戦争を題材にしています。舞台となったミズーリ州は、中西部に位置し中立的な立場をとってきましたが、ミズーリ州に北軍が侵入したことを受け、民兵に出動が呼びかけられます。

 

 アメリカの戦争映画は強くてかっこいいですが、(プライベート・ライアンやフューリー等)トウェインの描く民兵はめっちゃ人間臭い。

 

メンバーそれぞれに軍曹だとかの階級が割り振られるんですけれども、どっちが上でどっちが下かよくわからないので揉めたりする。というかそもそも、最近まで単に近所だった人物にあれやこれやと指図されるのが受け容れられない。

 

「失敗に終わった行軍の個人史」は、このように何のために戦うのかもわからず、北軍が攻めてきた!という本当か嘘か分からない情報によって下された命令で集まった村人たちが英雄になれる舞台を用意され、何の訓練も信念もないまま英雄になれる!と突き進んだ結果、ただの人殺しになってしまった、というお話です。

 

 ハックルベリーフィンの冒険のときも思ったんですが、トウェインは、こういう”なかったことにされる出来事、いなかったことにされる人々の「歴史」”をテーマに書いているんじゃないかな、と思いました。

ハックルベリ・フィンの冒険の記事を読む。

 

 

美しい世界とその崩壊

2作目は、ティファニーで朝食を、が有名すぎるトルーマン・カポーティの「クリスマスの思い出」。

 

 僕たちには、資本主義的というか、大人の世界の理屈というか、「どれだけ自分が得るか」「どれだけ自分が損をしないか」が重要だという考え方がしみついています。というか、そういう考え方を身に着けていないと、普通に暮らすのが難しい世界を生きている。

 そうではあるのだけど、もっと大事なことがあるのではないか、という問いがここにあると思うのです。それは「誰かにあげたいと思っているものあげ」ること、すなわち「贈る」ことである。

 

ティファニーで朝食をの記事を読む。

 

 「クリスマスの思い出」は、主人公が7歳の頃の思い出話で、親戚にたらい回しにされて人間不信だった僕唯一の友達は60歳を超えた老女スックと彼女の飼っている犬のクイーニー。僕と親友の楽しみは、一年間で貯めたお小遣いを使ってクリスマス・ケーキを焼くこと。自分達でナッツ等の材料を集め、足りないものは一生懸命貯めたお小遣いで買ったりながらケーキを作る。

 

 そのケーキを贈るのは、友人たちのためだ。近くにいる人たちだけじゃない。通りすがりの人だったり、全くの他人だったりする。贈りたい人に贈るのだ。たとえそれでお金が尽きて親友二人のプレゼント交換の余地がなくなったとしても。

 

そうしたつながりの中で何をするかというと、ケーキをひたすら焼く。しかも、そのために非合法のウィスキーを買ったりする。違法行為までしてケーキを焼くの?と思ったりもしますが、こうした部分から、この物語が、社会に認められた正しさとは違う、ある種の善意とかぬくもりのようなものを扱おうとしていることが分かってくると思います。

 

 非力な7歳の僕と、家から5マイル以上離れたことがなくて、電報を打ったり受け取ったこともないし、新聞の漫画と聖書以外のページを読んだことのない(つまり普通の大人がすべきことをしていない)スックは、弱肉強食の世界で圧倒的な弱者です。

 

 だけど、二人は恵んでもらうべきなんてひとっつも思っていない。奪おうなんて思っていないんです。ただ、ひたすら贈りたいと思ったものを贈る。

 しかし、この世界でそんなことがうまくいかないと分かっているから多くの人は奪う側に周り、自ら汚れていくのである。すなわち二人の美しい贈りものは永遠には続かない。

 それに現実的に考えれば、そんなほとんど赤の他人に使うくらいなら目の前にいる大切な友の欲しいものに全財産を使った方がいいのでは?なんて思うのですが、スックの心はものすごく広いわけです。

 家から5マイル以上離れたことがないのに、その心がどこまでも自由だからこそ、大都会のホワイト・ハウスからお礼状が届いたりするのです。

 

 大人になったらわかるけど、本当に”欲しいもの”って物ではなくて、それよりも誰かと一緒にした”心温まる経験”が、自分が立ち止まったとき、本当に”欲しいもの”として浮かび上がってくる。

 

 7歳の僕もすごく大人で、この年頃なら泣いて喚いて欲しいものを強請ったりするのに、スックと一緒にほっこりとケーキを焼いたりしているのです。幼いカポーティは言語化できなくてもスックと過ごす日々こそが未来の自分の本当に”欲しいもの”だと分かっていたのでしょう。

 ものすごく読みやすくて、知らない作家さんのことも知らない作品のことも置いていかれることなく読み進められます。特にオコナーの「善人はなかなかいない」のおばあちゃんのせいで一家全員の死亡フラグが立つのはめっちゃ笑いましたwおばあ善人じゃないんかwwと。これは読まねば。