《内容》
フラナリー・オコナーは難病に苦しみながらも39歳で亡くなるまで精力的に書き続けた。その残酷なまでの筆力と冷徹な観察眼は、人間の奥底にある醜さと希望を描き出す。キリスト教精神を下敷きに簡潔な文体で書かれたその作品は、鮮烈なイメージとユーモアのまじった独特の世界を作る。個人全訳による全短篇。上巻は短篇集『善人はなかなかいない』と初期作品を収録。
やばい。
オコナー好きだわ。
ちょっとラース・フォン・トリアーに似たものを感じる。
人間嫌いのラース・フォン・トリアーの有名作↓
フラナリー・オコナー(一九二五-一九六四)が好きだと、ある編集者に言ったら、「苦手だな、暴力的だしグロテスクだから」と返された。なぜそんなふうに書こうとしたのか、そのところに意味があると思う、と重ねたのだが、相手は首を横に振るばかりだった。
(巻末より)
善人はなかなかいない、の解説はここに書かれている通り。
感想↓
この本を読んでオコナーを知りました。この本のときも「ババァwwww」って思いながら読んでたんですが、本作読んでも「オババwwwww」としかならなかったw
特に自分のせいで事故って呆然とする息子夫婦に内臓を痛めたといって顔色を窺うが無視されて行きたかった場所が違ったという自分の勘違いを謝罪せず黙っておこうと心に決めるシーンが面白かった。(「善人はなかなかいない」は、おばあちゃんが息子夫婦の旅行についていって行先変更させた結果脱獄囚とエンカウント。挙句、「あんたたち知ってる!」とか言っちゃって全員BADENDに導く話)
人ってそういうことあるよね、冷静に自分の非を土に埋めて隠蔽するよなってシーン。前提がいつも叱られていたり虐げられている人間なら共感するけど、前提が”善人”だから滑稽に映る。そして腹が立つんじゃなく笑ってしまう。そうさせる書き方がアメリカ作家という感じ。うらやましい。こういうユーモア。
個人的に「河」が強烈に印象に残ったので、こちらの感想を書いていきます。
河
ミセス・コニンが叫んだ。「お母さんのことを忘れないで!この子は母親のために祈ってもらいたいんですよ。母親が病気なんです。」
説教師は言った。「主よ、私たちは苦しむ人のために祈ります。その人はこの場で信仰を告白することはできませんが。お母さんは入院しているのか?どこか痛むのか?」
子供はまじまじと説教師を見つけた。「まだ起きていないんだ。」子供は困りきって高い声で言った。「二日酔いなんだ。」あたりは静まりかえった。水面に落ちる日射しの音がきこえるかと思うほどだ。
(中略)
岸のほうで大笑いする声があがり、ミスタ・パラダイスが叫んだ。「ははあ、二日酔いの女を癒すんだってよ!」じいさんはこぶしでひざをたたきはじめた。
子供は酔っ払いの両親の依頼でやってきたミセス・コニンに連れられて河の説教師に祈りをささげにやってきた。
説教師は悩みを河にひたし、悩みがキリストの王国に向かって流れていくのを見ろと言う。ある女性は歩けなかったのに、それを見たらずんずん歩いて帰ったという。
洗礼を受けていない子供は、説教師によって河に浸され価値ある者になったと言われる。そんな姿を耳にガンを持つミスタ・パラダイスはいんちきだと笑う。その一日は子供にとって大きな出来事だった。
ネグレクトされている子供は自分の帰る場所は家ではなくキリストの王国だと思うようになる。説教師にしてもらうのではなく、自分で自分に洗礼を行いキリストの王国へ行こうと、後日一人で河につかる。子供はそのうち溺れ河の急な流れに捕まり水の中に連れ去られてしまう。その光景をただ一人、ミスタ・パラダイスだけが見ていた。
引用文の部分は何度見ても「ブフゥッ!」と噴き出してしまうほど面白いシーンなんのだが、子供は真剣だ。「河」では善人である説教師とミセス・コニンによって子供が死ぬ。だが、子供を助けようと動いたミスタ・パラダイスも手は届かず子供を助けることはできない。
本作には大体3パターンの人間が出てくる。
・善人(大人)
・悪い人間(大人)
・迷える子羊(子供)
この3パターンだ。河で言うとこうである。
・善人(ミセス・コニン、説教師)
・悪い人間(子供の両親、ミスタ・パラダイス)
・迷える子羊(子供)
面白いのは、悪い人間を”悪い人間”としているのは善人なのである。そもそもミセス・コニンが勝手に子供の母親を病気と定義し治そうと言い始める。父親は大人のあしらいとして肯定も否定もしない。だが、そのやり取りを見ている子供は母親は病気なのだと思ってしまう。
他人を思いやることはいいことなのだから、それをしているミセス・コニンを正しいと思ってしまうのだ。だからミセス・コニンが信じている説教師を信じるし、ミセス・コニンが蔑むミスタ・パラダイスを蔑む。
子供は溺れゆく中でミスタ・パラダイスの姿を「大きな豚みたいなもの」と認識する。それはミセス・コニンが言った言葉だ。
結局ミセス・コニンと説教師が子供のBADENDフラグを立てたのだ。だが、それも”いじめ”や”悪意”ではない。子供としても自死とは思っていなかっただろう。善人と子供にとっては不慮の事故だろう。だが、ミスタ・パラダイスには見ていたのに救えなかったという罪、親はネグレクトで子供を自死に追い詰めたという罪が架せられるのはなかろうか。
善人が死者(被害者)と罪人を産みだすという構造。これが本作で一環として書かれていることです。同じことをシーンとキャラクターを変えて何度も再現される。終わらない悪夢。何度も繰り返すことまで含めて「善人はなかなかいない」は完成される。もはや芸術だな、って思いました。
超好き。