深夜図書

書評と映画評が主な雑記ブログ。不定期に23:30更新しています。独断と偏見、ネタバレ必至ですので、お気をつけ下さいまし。なお、ブログ内の人物名は敬称略となっております。

二十歳の原点/高野悦子〜独りであること、未熟であること、これが私の二十歳の原点である。〜

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《内容》

200万人が読んだ青春のバイブル!
痛みと美しさにあふれた、ある女子大生による魂の日記――
高野悦子没後50年。コミック版『二十歳の原点』も刊行!
独りであること、未熟であること、これが私の二十歳の原点である。
高野悦子、20歳。立命館大学に通う女子大生。学園紛争の嵐の中で格闘しながら、理想を砕かれ愛に破れた彼女は、1969年6月に自ら命を絶った。本を読み、恋をし、生きることについて真摯に考え続けた彼女の日記は、没後に出版されてベストセラーとなった。青春の美しさと痛みに溢れた本作は、いまなお人々の心を打ち続ける――。

 

 先日Xでこのような投稿があり、そのコメント欄にて紹介されていたのが、この本だった。

 

 高野悦子さんは昭和24年(1949年)生まれ。75年前に生まれて生きていた女性なのですが、20代というのは時代関係なく苦しいものなような気がして、私も十年以上前の記憶を掘り出して読んでみました。

 

大人は子どもの生き残り

 

青春を失うと人間は死ぬ。だらだらと惰性で生きていることはない。三十歳になったら自殺を考えてみよう。だが、あと十年生きたとて何になるのか。今の、何の激しさも、情熱も持っていない状態で生きたとてそれが何なのか。とにかく動くことが必要なのだろうが、けれどもどのように動けばよいのか。独りであることが逃れることのできない宿命ならば、己れという個体の完成にむかって、ただ歩まなければならぬ。「己れという個体の完成」とは何と抽象的な言葉であることか。悦子よ。おまえには詩も、小説も、自然も山もあるではないか。

 

 「だが、あと十年生きたとて何になるのか。今の、何の激しさも、情熱も持っていない状態で生きたとてそれが何なのか。」と思ってしまう気持ちはすごく分かるし、十代や二十代って今持っている憤りや怒りが永遠に消えないように思ってしまうんですけど、こういう行き場のなさっていうのは生きていくうちに削がれていくというか色褪せていくというのが実体験なのでね、今が辛くてもとにかく生きていてほしいな、と思います。

 

 私は誰かのために生きているわけではない。私自身のためにである。ホテルのソファに坐りながら、自殺しようと思った。車のヘッドライトに向かって飛びこめば、それでおわりである。家の父や母は悲しむかな、テレしようかなとか、今日はペンと手帳をもっていないから遺書はかけないなぁとか、本気になって考えた。けれども、死ぬってことは結局負けだよなぁと思った。こう言葉で書くと平板になってしまうが、もっと新たな泥沼(血とくそ)の中に入っていこうということなのだ。

 

 高野さんは中流階級の家庭で、この時代に大学にも行かせられるような経済力、仕送りもしてあげられるような家に生まれて、愛情も受けているのです。だから、家族への愛もある。でも、それさえも彼女をこの世に留まらせる碇にはならなかった、というのが、この小説がベストセラーになった所以なのかな、と思います。

 

 暗闇でもなく、明るい光線にみちあふれているのでもなく、ぼんやりとした何もない空間の私の世界。国家権力、そんなものは存在しているかさえ定かでない。私自身の存在が本当に確かなものなのかも疑わしくなる。他者を通じてしか自己を知ることができぬ。他者の中でしか存在できぬ、他者との関係においてしか自己は存在せぬ。自己とは? 自己とは? 自己とは?……

 

 時代は関係ないと書きましたが、高野さんの生きた時代は全共闘運動、武力闘争、マルクスなど闘いの時代だったのですね。そういう時代というのは、自分の意志を持つことが今よりも強く求められていたのかな、と思います。

 とはいえ、うちの父は高野さんの一つ下なのですが、のほほーんと生きていたらしいので、時代と一括りにはできず、やはり個人的なものはあるとは思うのですが。

 

 私は我(が)の強くない人間である。私は他者を通じてしか自己を知ることができない。自己がなければ他者は存在しないのに、他者との関係の中にのみ自己を見出だしている。他者との関係において自己を支えているものは何なのか。私はよく「どうでもいい」という言葉を使う。ときとしてぼんやりと空でもみているとき、あるいは激しい行動のさ中、現実放れした真空の中にいるように感じることがある。”Swimming in the cloud”そんな気持である。他者の存在が矛盾なく自己と同居している。そうした真空から脱したとき始めて、その矛盾に気づくのである。

結論ーー私の自我はあまりに弱い。

 

 この時代で求められる女性と逆を行く高野さん。学歴は不利になるし、大学に行くより花やお茶、花嫁修行をして女らしさを求められる中で、そのレールには乗りたくない。でも、大学に行っても学業をしなければ、と思うけど、多分そんなに興味もないから学業に身を捧げることもできない。でも、そんな自分を許せない。

 激しい闘争の中に身を置いてみても、シュプレヒコールに参加しても、浮いている自分を感じている。

 

 みんなが熱中しているものに自分も入り込めたら、社会が求めている女像を違和感なく受け入れられたら、そしたらそのコミュニティの一部になって友達もできるのに。

 

 どこにも居場所がない辛さ、孤独、それが日記の端々に表現されています。

 

 どうしてみんな生きているのか不思議です。そんなにみんなは強いのでしょうか。私が弱いだけなのでしょうか。でも自殺することは結局負けなのです。死ねば何もなくなるのです。死んだあとで、煙草を一服喫ってみたいといったところで、それは不可能なことなのです。

 

 ねぇ、でもそれって私だけなの?という心の叫びが聞こえてきます。

 強い人間なんていない。ただ強そうに見えるだけ。そのことに気づくのは、生きてこそなんだよな。

 若いとは、孤独で未熟なことである。辛い季節であるが、それを乗り越えた先には明るい未来があるとは限らない。じゃあなぜ生きるのか? そこに答えはない。今生きている人たちすべてが生きることを選択したのではなく、死んでいないというだけなのだと私は思って生きている。