《内容》
二十歳と6か月で、その生涯を自ら閉じた著者が大学受験を間近に控えた高校3年生の冬(十七歳)から都での大学2年の冬(十九歳)までの青春時代を綴った日記です。
若さゆえのさまざまな悩みを抱えながらも、精一杯に日々を生きるその姿は、時代を超えて、私たちの心に大切な何かを問いかけてきます痛々しいまでの純粋さとは、普遍性を持った文学的なテーマであることを思い出させてくれるはずです。
新装版は、当時の時代背景を知らない世代にも読みやすいように一部脚注を付しています。
また、著者が実際に日記を綴っていた大学ノートが横書きであったことを考え、より“個人の日記”という雰囲気を感じていただくために横書きの文字組デザインに変更しています。
帯の推薦文は「他人のBLOGを読む前に、この青春の記録を読むべきだ!――中村 航」。
「二十歳の原点」の後に出された序章。
これは高野さんの高校三年生から約二年に渡る日記です。
彼女が物心ついた時からずっと心の片隅に”死”を持っていたこと、自らの一部が”死”を望んでいながらも何とか他人と比較して生き続けようとしていたこと、生きなくては、という苦しさを感じながら生きることの孤独。
とても正直な心の声だと思いました。
死ぬことは「生きる」ことよりむずかしい
死ぬことは「生きる」ことよりむずかしい。死ぬ、すなわち自らを殺す、自殺することだからだ。「生」に対して積極的な姿勢がなければ自殺は出来ない。私は自殺する勇気さえない。そして生きている。朝は食事ぬきで学校へ行き、昼には生協の安くてまずい御飯をたべて生きている。人は食物をとり、住まいと衣服があれば生きられる。私はただ時をすごすために何かをやっている。クラブ活動を、勉強(?)を。
行動には一貫した目的がない。けれども何かをやっていなくては自殺しなくてはならないから何かをやる。
「行動には一貫した目的がない。けれども何かをやっていなくては自殺しなくてはならないから何かをやる。」ただ息をする、ということも許されなかったのかな?このような精神的な問題はタブーだったのかな。
人間には、二種類の人間があるのではないかと思う。与えられたものをうけとって、それで生きていく人、それから与えられたものには満足せず、自分の足で、目で確かめ、自分の見方、考え方をつくっていく人の二種類。そういう二つの性質をどの人間ももっていて、どちらかが多かったり、少なかったりして、その人間の感じ方、生き方を決めている。アオ、マツ、牧野さんは後者型、私や母は前者型。前者型の人間は後者型の方にかわることはできないのだろうか。
前者だと自覚しながら、後者の生き方をしたいと思う。だけど、前者だから後者のように生きることに憧れながらも何か偽りのような作り物のような疎外感を感じていたのかもしれない。
部落研にいるとき私は部落解放の立場をとり、ベトナム戦争反対の立場をとった。それが私であった。ワンゲル部において部落解放の、そしてベトナム戦争反対の立場を取らなかったなら”私”はどこにあるのだろう。その中に私が存在したのだから、その中にいなければ私は存在しないのだ。ワンゲルにいると自己の立場を忘れやすい。ワンゲルの仲間達は人間的にみてとてもいい人たちばかりである。けれども自己の立場というものが全くない。疎外されているのを知りながら山を愛し、ワンダラーとしての誇りを強く持っている人たちである。けれどもその中には、労働者の立場にたつ自覚がない。私は私であるために、自己の立場を常に明らかにしていく必要がある。
ただ、自分の好きなことに没頭するということ。他人の苦しみや社会問題と自分を切り離して、個を尊重して徹底的に個として生きること。それじゃあダメだったの?とつい言いたくなってしまう。
いいとか悪いとかそういう問題じゃないんだけどね。
このノートをよんでみてハリキッテいるときは大てい友達または先輩と話し合ったりしているときだ。自分ひとりのときは、無力感やしょうそうを感じ、実質的に何もやっていないようだ。友人からうけた影響が単なる影響であって、自分のものになっていないのだ。私という人間が主体的に働らきかけて、私という人間をつくり出す。よろこびや楽しみをつくり出すことができたら。
「友人からうけた影響が単なる影響であって、自分のものになっていないのだ。」よく分かる感覚です。だから一人でいたいと思う。一人きりで感じた影響は他人と分つことがない分100%受け取れる。そこからだってほんの少ししか手に入れられないものだから。
でも、孤独が苦しくて、誰かといることで初めて影響をもらえる人からすると私の考えはお門違いなんだろうな。
みんなバカなことをしているふりをしながら、自分のことを知っているんだ。何も知らないのは私だけ。子供!彼らはわかっているんだ。「自分」というものをもっている。本当にバカなのは、私なのだった。他の人間が何を考え、何を思っているのかを知らずに、自分のことのみを考えている。よそう!卑下することから何が生まれてくるのか。いい加減にしろ。自分で自分をいじめて楽しんでいるのか。お酒を呑んで得たことは、そんなしゃっちょこばったものではなく、落ちる所まで落ちて思ったことは、「自分の行動に自信を持て!」ということだ。私のことを理解していようがいまいが、そんなことは恐れるな。自分の行動を大切にしろ。意志と行動を。そして自分をいじめることで快感を味わうな。卑下するな。
自己否定は時に気持ちいいね。自分で自分をコテンパンにやっちゃえば、他人に批判される時にはもう傷つく隙もないもんね。それに多くの人は傷だらけの人には優しいから、自分で自分を痛めつければ周りが優しくしてくれる。
でもそれが欺瞞だと、エゴで情けないことだとわかっていたから辛かったよね。