《内容》
「脳が死んでも体で話しかけてくる」
冷たい夏の日の夕方、25歳の青年が自死を図った。彼は意識が戻らないまま脳死状態に。生前、心を病みながらも自己犠牲に思いを馳せていた彼のため、父・柳田邦男は思い悩んだ末に臓器提供を決意する。医療、脳死問題にも造詣の深い著者が最愛の息子を喪って動揺し、苦しみ、生と死について考え抜いた最後の11日間。その日々を克明に綴った感動の手記。
この一人の若者のプライベートな出来事を、なぜ書こうとするのか。その解答は、これから書く文章全体の中にあるとしかいいようがないのだが、あえて簡潔にいうなら、彼の究極の恐怖心を取り除いてやるためだといおうか。それに、現代人の死は、しばしば個人の営みの範囲で終わることなく、それ自体のなかに社会的な意味がこめられているという私の考えもからんでいる。
彼が抱いていた究極の恐怖とは、人間の実存の根源にかかわることで、一人の人間が死ぬと、その人がこの世に生き苦しんだということすら、人々から忘れ去られ、歴史から消されてしまうという、絶対的な孤独のことだった。
何について、感想を書こうか、と思うとき
残された者たちのことよりも、やはり自死を選んだ洋二郎さんのことになる。
同じ屋根の下で暮らしながら、対話を重ねながら、一切の接触を拒むこともなく、苦しみながらも人とのコミュニケーションを諦めることがなかった青年がなぜ死んだのか。
犠牲(サクリファイス)
心を病む者は、限りなく人恋しく、人の愛を求めている。棘のない平凡で穏やかな会話を求めている。しかし現実に人に接すると、たとえ友達であっても、過度に気を遣い、緊張し、気楽な会話ができなくなる。そして、人づき合いの下手さを意識して、ますます苦しむことになる。
本書のタイトル犠牲(サクリファイス)は、タルコフスキー監督の映画のタイトルで、「犠牲(サクリファイス)」は我々が1日1日を平穏に過ごせるのは、この世界のどこかにいる名もなき人の自己犠牲のおかげだ、という信仰的思想の表現だと言う。
この名もなき人の密かな自己犠牲が、つまり骨髄移植であった。洋二郎さんは骨髄バンクに登録するが、ドナーになる前に自死してしまう。そこで、残された家族は脳死状態ではあるが、骨髄移植ができないかと医者に相談する。
そこで医者は臓器移植はどうかと代替案を出すのであった。
……理屈を超えて、死は抹消されないという。そして、さらにその死は、有意義なものとなって価値を帯びる。生命の連続性において、いかなる私もそれに関与し、貢献したのだ。自分の現在の生は、数限りない名もなき兵士の犠牲の上に成り立っている。
この世に生まれて死んでいった人たちの数は数知れず。死者という一言で括られてしまうこともあるけれど、死んだら終わりなのは死んだ人の心臓の動きだけなのだ。
残された人の人生からは、死んだとしても消えることはない。それが語り継がれていけばなおのこと。
洋二郎さんが好きだった本↓
私も好きだけど、タイトルの通り「孤独」を感じたことはあっただろうか。どちらかというと語られるマコンドの摩訶不思議な世界観に惹かれたもので、「百年の孤独」という真の意味を掴むことはまだできていないだろう。
洋二郎さんが好きだった本↓
大江健三郎という超絶有名作家の作品を一つも読んでいない私とはいかに?
でも周りでも読んでいる人や好きな作家にあげる人がいないんだよなぁ。時代なのかな?
タルコフスキーはストーカーを映画館で見たけれど、一回で理解するのは超難関。できれば何度も見れるアマプラで配信してほしい…!(現代っ子)