《内容》
『犠牲 わが息子・脳死の11日』をなぜ書いたか──内面の葛藤と読者からの反響を通して、書くことによる癒しと再生を率直に語る
「この門は、おまえひとりのためのものだった。さぁ、もうおれは行く。ここを閉めるぞ」
ーーこれだけの話なのだが、ここには人間の根源的な疎外と孤独の真実が語りつくされている。私はこの短編をあらためて読んで、息子がなぜ「凄く怖い」といったのかを、以前にもまして理解できたように思った。
「掟の門」の「掟」とは何か。俗っぽい解釈になるかもしれないが、「掟」とは人間社会のことだ。様々なルールやぶつかりあいや愛憎やしがらみに充ち満ちた人間社会。人が生きていくには、その「門」をくぐって、社会に入っていかなければならない。
ところが、大部分の人々には、実は「門」などはない。「門」などを意識しなくても、気がつけば社会に入っている。「門」はあって、ないのだ。これに対し、感性の鋭敏な人、とりわけ心を病む者にとっては、絶対的に「門」がある。不特定多数の人々のための「門」ではなく、自分だけのための特別な堅固な「門」があるのだ。個人の内面の「門」というべきか。その「門」の前には、怪物のような門番が立ちはだかっている。
(中略)
もっと深いところに根ざす疎外や孤独というものは、個々の人間の内面に潜んでいる問題なのだ。それは、「もっと悲惨な人々がいるのに」といった視点で相対化しても意味のない、絶対的な個の問題としてとらえないと、本質を理解することができない。
現代の孤独
その背景を考えると、現代の日本は、昔のように地縁関係のなかで、大工の子に育てば大工になり、魚屋の子に育てば魚屋になり、村に育てば百姓の子になって犂や鍬を背負って生きるというのが運命づけられていて、悩みもへちまもない、ただその人生しかないという時代と違って、自由に生きることができ、そして、都市化した社会のなかでは価値観も多様化し、周りの人は歌ったり楽しんでいるようにみえる。そういうなかで自分はいったい何を人生の目的にしているのか、何が生きる楽しみなのかということを見つけるのは、かえって難しくなっている。つまり、自分のアイデンティティ拡散の時代傾向と同じ軌道上にあるように思うんです。
自由を求めた結果、彷徨う人が増えて、生きることが難解になっている、ということなのかな。私はバリバリのゆとり世代なので、この年代の苦しみや混乱というのは馴染みがないのだと思う。
時代の転換期?だったのかな。
でも、現代のSNSも結局のところ同じな気がする。みんな金持ちそうに見えるし、みんな加工で美人だし、リア充って感じだけど、それがただの演出であることに気づくのはこれまた人生経験なんだよなぁ…。
河合 ええ、ほんとうにそうです。多くの人は自分が生きてる世界の価値基準を俗世的なものに固定しすぎているんですね。一時間の倍は二時間であるとか、一千万円より一億のほうが多いとか、そういう価値基準に縛られすぎて、この世の中を面白くなくしているんですよ。
もちろん、百円と二百円は違うというのは、厳然たる事実です。つまり、そういう俗世的な事実と根源的な生を生きる立場に立てば百円も二百円もあまり変わらないというのも、また大事な事実です。この二つが人生にあるんだけど、われわれが生きている「近代」以後の時代は、前者ばかりを強調しすぎて、本質的な価値を見失ってしまったんですね。そこのところを、ちょっと考え方を変えると、だいぶ見えてくる。もっと究極まで見方を変えないといけませんけど、究極まで行ったら、さっきいったように、百円も二百円も、二十年も百年も、差はなくなる。
「自分が生きてる世界の価値基準を俗世的なものに固定しすぎている」
自分のものさしを持つというのが難しいのか、あるいはそれを持ったところで他人のものさしと比較することをやめられない、ということなのか。
でもどっちにしろ、これは前提として「確立した自己」がないとできないことだ。若者の、まだ何者でもない若者にこれはとても難しい。
ーー小説のことでも音楽のことでも全部、父親が解説しちゃうじゃないですか。
柳田 そうなんです。子どもから聞かれると何でも答えちゃうわけです。親というのは答えちゃ駄目なんですね。
洋二郎さんにとって、父親の存在というのが偉大すぎた、と最後に語られていて、それが何だかすごく胸に響きました。自分がなりたいと思っていることを父親はすでに仕事として持っている。本にしろ、音楽にしろ、自分は常に二番煎じ。自分が思いついたこと、感じたこと、得た知見、そういったものが全て身近な人に理解されてしまうというのは、所詮自分が理解の範疇に留まっている証明で成長を感じずらかったのかも知れないな、と思いました。