《内容》
第2次世界大戦中のドイツ占領下のリヨンで、友人の神学生をナチの拷問にゆだねるサディスティックな青年に託して、西洋思想の原罪的宿命、善と悪の対立を追求した「白い人」(芥川賞)汎神論的風土に生きる日本人にとっての、キリスト教の神の意味を問う「黄色い人」の他、「アデンまで」「学生」を収めた遠藤文学の全てのモチーフを包含する初期作品集。
めちゃくちゃわかりやすいです。
わかりやすすぎて解説で欠陥と書かれていて、そんなこともあるんだな……と思いました。(文学って難しい)
同じカトリックの三浦綾子さんの「道ありき」と似ています。これはわかりやすいけれど、決して宗教勧誘ではないし、キリスト賞賛でもないです。
主人公の不信心に読者は共感すると思うし、かといって彼らが決して救われるわけではない終わりは、強制感はありません。(むしろカトリックで言えばオコナーの方が相当キツイ)
白い人
私が踏みつけ、撲り、呪い、復讐しているのは、その少年、このジャックだけではなかった。それはすべての人間、幻影を抱いて生れ、幻影を抱いて死ぬ人間たちにたいしてであった。
主人公は斜視で、そのことを理由に父親から「一生、娘たちにモテないよ」と言われてしまう。母親は厳格なプロテスタントで、厳しい禁欲主義を押しつけた。
しかし主人公は女中のイボンヌが老犬を白い太ももで抑えつけるのを目撃したとき、情欲の悦びをしる。それ以後、世間的にはプロテスタントとして敬虔に祈るふりをしてきたが、イボンヌの加虐に惹かれた主人公が仰ぐのはもはや神ではなく悪魔だった。
両親が死に、フランス・リヨンはナチスによる侵略を受けていた。ナチスが行う一方的な投獄と拷問に、加虐に惹かれる主人公はもちろん興味を持った。
ドイツ人の母親を持つ主人公は、通訳としてナチスに入党することとなり、連れてこられた大学時代の友人・敬虔な信者のジャックと再会する。
ジャックは小さな、暗い眼を私の方にむけた。それから「君こそぼくを憎んでいたのだな」といった。
「うむ、俺はお前を憎んでいるよ。それをお前は、あの大学時代から知っていたろうが」
「なぜだ。なぜ、ぼくが」と彼は喘いだ。「ぼくが憎いんだ」
主人公はジャックを拷問にかける。大学時代にはジャックの従姉妹を誘惑し、禁欲の罪を犯させようと企んだ。
ジャックが彼に何かしたわけではない。ただジャックは神を信じ、彼にも同意を求めただけであった。
お前が、もし、俺たちの責め道具に口を割らぬとしたらだ、そりゃ英雄主義への憬れ、自己犠牲の陶酔によるものじゃないか。酔う。恐怖を越えるためになにかに酔う、死を克えるために主義に酔う。マキだって、お前さん等基督教徒だって同じことだぜ。人類の罪を一身に背負う。プロレタリヤのために命を犠牲にする、この自分、この自分一人がという涙ぐましい犠牲精神がお前さんを酔わしているんじゃないか。
綺麗な二元論、聖と俗で成り立つ物語なので、かなりわかりやすいし、文章も読みやすいです。
主人公は自分が醜い相貌の持ち主であることを父から告げられ、母からは禁欲を押しつけられている。つまり「ありのままの自分」では受け入れられない=愛とは条件付きなもの=救いや祈りなど幻影にすぎない、という心理が読み取れる。
私は主人公の意見にめちゃくちゃ共感するし、ジャックや従姉妹がなぜそこまで神を信じるのか、という疑問には主人公の「自己犠牲の陶酔によるものじゃないか」がピッタリと当てはまる。
物語は別に主人公に罰を与えたりはしないので、これは神を信じなければこうなりますよ的教訓話ではなく、基督教徒に対してはどこまで許せるか、もしくはその祈りが純粋な犠牲精神ではなく、自己の名声のための道具になってないか、という確認で、主人公側の人間には、神はこのような愚かな人間も見捨てることはないのです、とでも言っているかのように思える。
それか、主人公がここまで幻影を抱く人(信者)に突っかかるのは、彼が真実の愛を求めている彷徨える子羊というまさにキリスト教が生まれる所以になった人間であるからとも見える。