《内容》
角膜移植で光を取り戻したヴァレリーは術後、不思議な男性の幻を見るようになる。彼は誰? ブリュッセルの女と東京の男が運命によって呼び合わされたとき……幸せの予感に満ちあふれた、極上の愛の物語。
むかーし、まだ小中学生くらいの頃、金曜ロードショーかなんかでやってた「冷静と情熱のあいだ」がまったく意味わからなくてね。笑
今なら年齢がどれだけ大切かわかるけど、それで辻仁成って苦手だーという先入観が生まれちゃったんだろうな。でも、ふらっと寄ったブックオフで100円で、しかも薄いし、綺麗だし…と、手に取ってみたら…いやぁ〜好きだわぁ〜大人になったんだなぁ〜と自分の成長も感じたのでした。
愛について
たとえば、まず愛について。
人によってその意味が異なっているにもかかわらず、人はみんな「愛」という言葉ですべてを片づけようとするものだから、結局、誤解を招き、別れを呼び、酷い時はその一つの単語のせいで殺し合うこともある。大嫌いな言葉なのに、でもつい使ってしまうのはわたしが弱い人間だからか。そう考えると、愛は暴力に似ている。
これは冒頭の一文なんですけど、共感によって惹き込まれますね。特に「愛は暴力に似ている。」の部分。本当にそう思う。好きの暴走。好きなら、恋人なら、どこまでも侵略していいと思っている。甘えていいと思っている。その境界線もまた「愛」と呼ばれるから、自分の領域を守ろうとする戦いに発展し、ズタボロの終戦を迎えるのだ。
愛と聞いて、イメージ画像を探すとき、何を想像するか。
ハート?カップル?繋がれた手?
私にとっては光だ。
この物語もまた光の話で、その点で私とこの作品の融和度は高い。
だいたい、いつもその男は深夜に現れる。ステファンと抱き合った後だとか、あるいは、ワインを浴びるほどに呑んだ酩酊時なんかに。
真っ暗な部屋の一隅に、光と混ざり合って朧げに立っていることが多い。壁の染みと見分けがつかないほどうっすらと。悲しそうな顔をして、わたしのことを見つめている。
主人公・ヴァレリーは角膜移植手術を受けたあと、ある男を目にするようになる。それがヴァレリーの角膜の持ち主が見ていた男性だろうと思い彼を探すようになる。
ヴァレリーにはステファンという家庭持ちの恋人がいて、「本当の愛」を知らない、と自分のことを分析する。だからこそ、この角膜の持ち主が角膜に焼き付けるほど見つめた男との中に愛があると思ったのだ。
生きて死ぬことの重要な意味は、魂に与えられている。人間という潜水服を纏って、魂は現実世界の海を潜る。潜行している間に魂は鍛えられる。生きるという期間はきっと、魂の修行期間でもあるのだから。生や死で右往左往することなんかない。それはきっと潜水服を着たり脱いだりする行為に等しいのだから。
角膜の持ち主・ベアトリスと彼女が見つめていた男・ナツキを探し出すことに成功したヴァレリー。ベアトリスが死んでなお、ナツキの心の中で生き続けていること。自分の目となりナツキをまた見つめていること。
その神秘的な愛は、ヴァレリーに魂や輪廻を想像させる。
それにしても生と死を「潜水服を着たり脱いだりする行為」と表現するのはとっても希望があって素敵だ…!
ショッキングとも思える死が、一つの解放でそれもまた「愛という暴力」であること。しかしそれに続く生が幸せな結末を望むこと。折り鶴に込められた祈り。オコナーに通じる生と死の中に優しい愛があり、めちゃくちゃ好きな作品でした。