深夜図書

書評と映画評が主な雑記ブログ。不定期に23:30更新しています。独断と偏見、ネタバレ必至ですので、お気をつけ下さいまし。なお、ブログ内の人物名は敬称略となっております。

山の音/川端康成〜息子の嫁に恋をする、とはこれいかに〜

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《内容》

家族という悲しい幻想。夫と妻、親と子、姉と弟、舅と嫁。日本独特の隠微な関係性を暴いた、戦後文学の傑作。

深夜ふと響いてくる山の音を死の予告と恐れながら、信吾の胸には昔あこがれた人の美しいイメージが消えない。息子の嫁の可憐な姿に若々しい恋心をゆさぶられるという老人のくすんだ心境を地模様として、老妻、息子、嫁、出戻りの娘たちの心理的葛藤を影に、日本の家の名状しがたい悲しさが、感情の微細なひだに至るまで巧みに描き出されている。戦後文学の最高峰に位する名作である。

 

 これ、令和の感覚だとヤッベェなとしか思わない。(これに限らず川端文学はヤヴァイ)

 読書の基本として、その時代から物語を移動してはいけないので、こういう時代だったんダナーと読まなければいけないのに、それが難しいのは、偏に川端氏の文体な気がする。

 もちろん表現が古風なのはあるけれど、なぜか古臭くないのだ。現代でも全然おかしくない。(文学界のhideか?)むしろ三浦綾子氏とかの方が一昔前のドラマ感がある。この時代を問わない文体、これこそが川端マジックなのだと本作で気づいたのだった。

 

 

 

 信吾にとっては、菊子が鬱陶しい家庭の窓なのだ。肉親が信吾の思うようにならないばかりでなく、彼ら自身がまた思うように生きられないとなると、信吾には肉親の重苦しさがなおかぶさって来る。若い嫁を見るとほっとする。

 やさしくすると言っても、信吾の暗い孤独のわずかな明りだろう。そう自分を甘やかすと、菊子にやさしくすることに、ほのかなあまみがさして来るのだった。

 

 主人公の信吾は六十二才で、妻の保子は一つ上の六十三才だった。子供は一男一女で、姉の房子長男の修一。房子は女の子が二人いてもう家を出ている。修一は嫁の菊子と一緒に信吾の家で暮らしている。

 信吾と修一は同じ会社で働いている。

 

 信吾にとって、実子たちは決して心安らぐものではなかった。房子は可愛げがなく、子供を連れて家に戻っては文句ばかり言い、夫はその房子を迎えに来ることもない。

 修一は外に女を作り、菊子に寂しい思いをさせている。

 信吾は妻の保子の姉に恋していた。しかし彼女は若くして亡くなってしまう。永遠の片思いを続けている信吾はその面影を菊子に見るのだった。

 

 菊子に片思いの君を重ねながら、その菊子を傷つけているのが自分の息子だという事実。信吾は秘書の英子を捕まえて、修一の愛人は誰なのかと問い詰めるのだが、それは純粋な怒りではなく、思春期のような不純な感情も入り混じっている。

 

 薄い毛織の紺のスカアトをはいていた。スカアトは古い。

 乳房の小さいのも気にならぬ服装だった。

 

 このように英子の胸が小さいことが気になる信吾なのだが、無意識なのか、英子が修一の愛人の女のしゃがれ声がエロチックだというのを聞くと

 

 英子が口をわりそうになると、信吾は耳をふさぎたくなった。

 自身に恥辱も感じ、修一の女や英子の本性の出そうな嫌悪も感じた。

 

 と、他人の品性は厳しく判定するのだった。 (こんなの村上春樹が書いたらバチくそアンチ湧くぞ)

 このように矛盾する心理の持ち主である信吾は、同期の死や、菊子の堕胎、房子の夫の逮捕など、さまざまな出来事の狭間に夢を見る。

 父親として何もしない、と妻と娘から指摘され、それでも腰の重い信吾だったが、菊子の堕胎の理由、そのあとすぐの愛人の妊娠。これが信吾の重い腰を上げさせた。

 しかし息子の修一はどこ吹く風で、「菊子は自由なのだ」というのだった。

 なぜこの作品が「戦後日本文学の最高峰と評された傑作」なのか、自分には全くわからない。日本文学として初めて全米図書賞を受賞した、とあるが、あらすじにある、日本独特の隠微な関係性が「息子の嫁に恋をする」のだとすれば、日本だけか?とも思うし、ちょい恥ずかしい。

 年を取っても全く威厳なく、忘れられない片思いを再演する幼さが日本特有だとするならなんとなくわかる気がするが。