深夜図書

書評と映画評が主な雑記ブログ。不定期に23:30更新しています。独断と偏見、ネタバレ必至ですので、お気をつけ下さいまし。なお、ブログ内の人物名は敬称略となっております。

サリンジャー選集(2) 若者たち~理想はリアルからすごく遠い場所~

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≪内容≫

ライ麦畑の原型「気ちがいのぼく」やホールデンの兄ヴィンセントの物語も収録。

 

サリンジャー自身は初期の短編が気にいっていないようですが、個人的には曲がなくて読みやすいのが初期で、わりと好きです。

 

16編のかんたんな紹介

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若者たち・・・パーティーに出席したエドナだったが、男が全然寄ってこない。見かねたルシールが連れてきたビルと話してみるも、彼女には譲れない意思があり、それを守ることが今の彼女にとって一番大切なことだった。

 

タバコを吸い終わると、エドナもなかへ入った。彼女は足早にまっすぐ階段をのぼり、ルシール・ヘンダソンのお母さんの家のなかで、火のついたタバコや濡れたハイボールのグラスをもった若者たちが入ってはいけないことになっているところまで、のぼって行った。

 

エディーに会いな・・・根無し草的な妹に「エディーに会うんだ」と忠告する兄。まだまだ社会に組み込まれたくない妹の甘ったるい抵抗。

 

「ボビー。わたしフィルを愛しているのよ。誓ってもいいわ。ただ遊びまわってるなんて思わないでほしいの。まさか、そうじゃないでしょうね?わたしが気まぐれで他人を傷つけてるだなんて?そんな風に思わないでね」

 

じき要領をおぼえます・・・端から見て向いていないものを好んでやる人間というのは、鬱陶しがられる。

 

「要領をのみこむまで待って下さい」ペティットがいった。「じきにのみこみます。嘘じゃありませんよ。本当にぼく軍隊がだいすきなんです。いつか大佐かなにかになってみせます。嘘じゃありません」

 

できそこないのラヴ・ロマンス・・・世の中が求めるラヴ・ロマンスを始めるためにはまず、男女が出会わなければならない。

 

それにしても、獄中でホーゲンシュラーがシャーリー・レスターにあてて次のような手紙を書けなかったとは、なんとも残念至極なことではないか。あまりにむごい話である。

 

ルイス・タゲットのデビュー・・・いつから大人という名の責任感というものは芽生えるのだろうか。無責任に生きるルイスがデビューしたのは悲しい出来事がきっかけだった。

 

それからついにルイスにも物事をふっ切れる日がきた。そうしてついに彼女が大人になったとき、だれもがそのことを知ったように見えた。

 

ある歩兵に関する個人的なおぼえがき・・・ある歩兵とは40を過ぎた妻子持ちの男だった。その男とは・・。

 

「わたしは戦争に行きたいんだ。わかんないのかい。わたしは戦争に行きたいんだよ。」

 

ヴァリオーニ兄弟・・・作曲家の兄に付き合って作詞を行う弟の望みは作家になることだった。しかし弟は自分の作品を書きあげるまえに亡くなってしまう。世間と個人。孤独と賞賛。

 

「ぼくはなにも一生、兄貴のために作詞するつもりはないよ」ジョーは説明した。「兄貴が成功するまでのつもりさ」

 

二人で愛し合うならば・・・結婚というのは二人だけのものではなく、両方の家族も関係するのは家族になるならば避けては通れないことである。しかしそれを受け入れられない新朗と、そんな新朗に泣かされる妻の話。

 

つまり彼女とぼくのあいだがオーケーなら、それでいいっていう意味だ。二人が愛し合っているならば、それでいいっていうことさ。

 

やさしい軍曹・・・語り手が話すバークさんというやさしい軍曹と、その話に涙する妻ジャニタの物語。華やかでない人間や出来事は物語にはならない。語り手はそんな人間の美しさ、誠実さを語りかけてくる。

 

おれもほんとに子供だった。バークさんの勲章を三週間もぶっ続けに軍隊用の下着にくっつけていたもんだ。朝、顔を洗うときまで、つけていた。

 

最後の休暇の最後の日・・・第二次世界大戦に組み込まれたグランドウォーラーとヴインセントの戦争に対する考え方、姿勢、そしてその周りの人々の日常。

 

ぼく厭味をいうつもりじゃないんだけど、でも第一次大戦に行った人たちって、みんな戦争は地獄だなんて口ではいうけれど、だけどなんだか、-みんな、戦争に行ったことをちょっと自慢してるみたいに思うんだ。

 

週一回なら参らない・・・戦争に行く前の兵士が妻に叔母を週に一回映画に連れ出してくれるように頼む。

 

このメモは若い男の母親にあてて書かれたもので、かれがそれを読んだのは子供のころ、それ以来もう百回も読み、今また一九九四年三月に読んだのである。

 

フランスのアメリカ兵・・・戦争中のほんのわずかな休息時間のスケッチ。一人用のたこつぼに潜るアメリカ兵はポケットから擦り切れた手紙を取り出し三十何回目かまた読みだした。

 

少年は軍装から自分のざんごう道具をとりだすと、穴のなかへ入りこみ、だるい手足を動かしてその気持のわるい場所を掘りはじめた。

 

イレーヌ・・・美しく愚かなイレーヌは母と祖母と三人の閉鎖的な世界で生きる。

 

かれらが散歩や映画にさそっても、できないわ、お母さんが許してくれないわ、といった。だが、実はそうではなくて、問題を家までもってくることがなかったのである。

 

マヨネーズぬきのサンドイッチ・・・ホールデンの兄ヴィンセント軍曹兵士たちを管理し命令を下さなければならない。そんな憂鬱な状況の中、彼は行方不明となっているホールデンに思いを馳せる。

 

死んでなんかいるんじゃなくて、ここにいると言ってくれ。

 

他人行儀・・・ヴィンセントの死を彼の恋人に告げに行く親友グランドウォーターの物語。戦争で亡くなった人のありのままを伝えたい気持ちと、それを自ら恐れるグランドウォーターの心理が描かれている。

 

こういうことは起こらなかった。こういうことは、生きているという必死のよろこびにさいごの思考をむすびつけることのできるごく、ごく召集の男たちをのぞいては、映画や小説以外にはありっこないのだ。

 

気ちがいのぼく・・・「ライ麦畑」の原型。ホールデンがスペンサー先生宅に訪問するシーン。

 

ぼくは、どうにもやり場のない気持で、長いあいだ、眠れなかった。ほかの人はみな正しくて、ぼくだけがまちがっているのだということはわかっていた。 

 

 

最後の休暇の最後の日における戦争後の話

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 第二次世界大戦については、正しいというベーブ。だが、そこで起きた出来事は戦争が済んだら口を閉ざして二度と話すべきじゃない。死者は葬らせるべき時だと続く。

 

でも、もしぼくらが帰還して、ドイツ兵が帰還して、イギリス人も日本人もフランス人も、だれもかれもがヒロイズムだの、ごきぶりだの、たこつぼだの、血だのと話したり、書いたり、絵にしたり、映画にしたりしたとしたら、つぎのジェネレーションはまた未来のヒットラーにしたがうことになるだろう。

 

 「最後の休暇の最後の日」は戦地に行く前の話で、帰還後は口を閉ざすべきだと語るベーブだったが「他人行儀」ではヴィンセントの死を受け、彼のことはもちろん、戦地で起きた出来事を一般市民に聞かせたいと思うようになっている。

 

 私は、「最後の休暇の最後の日」の引用文のことについて確かにそうだな、と思いました。知るということは可能性を秘めてるわけで、つまるところ全てが良い結果に繋がるわけではないじゃないですか。

 

 もちろん、二度とこんなことが起きないようにという願いが込められていること、当時の人たちの苦しみを胸に刻むことが前提ではあったとしても、ヒトラーを崇拝する人だっているわけですし。実際当時のドイツがヒトラーを求めた心理を学んで自分に都合よく使おうとする人も、彼をモデルにする人もいるだろうし。

 

 サリンジャーってリアルからすごく遠い場所にいる気がするんです。

夢の中、とまでは言わないけれど、彼の理想の場所があって、そこではインチキも汚さも何もない平和な世界。

 

 「他人行儀」でのベーブは戦争での出来事を語りたいという自分を恐れている。しかし、それを恐れること、つまり知らなくていい人たち、知ったら余計に傷付くである可能性、知らなければ映画や小説のイメージのように綺麗なままで済んだはずの人々の平和を壊すことを恐れているのではないかなぁ?と思う。

サリンジャー選集(2) 若者たち〈短編集1〉

サリンジャー選集(2) 若者たち〈短編集1〉

 

サリンジャーを思うと、話すことというのがある種の自己治癒になるのだということがぐん、と伝わる。

 話すことで、相手が辛くなることは自分だけでとどめておけばいいのだと、私も思ってしまうタイプだから。彼が今もなお読まれているのはその内向的な部分が多くの人の心に共鳴してるからなのかな、と思いました。