≪内容≫
グラース家の長男、7歳のシーモア・グラースが、1924年の夏休みにメイン州のキャンプ地・ハプワースに来てから16日目に家族に送った長い手紙を、1965年に弟バディがタイプライターで書き写している、という形式で叙述される書簡体小説。シーモアの、キャンプ地の大人たちに対する批判意見、文学作品や哲学に対する考察、自身の性的欲求などが、7歳児としてはありえないほど高等かつ饒舌な文体で語られている。
この作品に至ってはまず、「こんな7歳いるわけないだろうがwwwwww」という大草原から始まってるのでベースがもうとんでもないんですけど、その上で喋ってる本人は居たって大マジメで、しかも内容がハッピー夫人に性的欲望を抱いてしまうのですが、あなたはどうやって過ごされたか教えてください親父よ!っていうとこもあって、ところどころ「w」なのです。
確かに海外の作品って笑えることが多いというか、自分と他人がくっきりと分かれているから、例え苦しくてもそれをお互いの前提とはしない印象です。
俺は苦しいけど、それはあくまで俺の問題であって君の問題ではない、だから俺の苦しみで君を困らせるのは違う、でも俺は俺の苦しみを語りたいから、君を困らせないように語るよ!って感じです。
そういうところ、すごく見習いたい。実生活の会話で。
前世の記憶を持ってるシーモア、7歳
自分の愚かさにはうんざりなんだが、このやっかいな不安定な性質を、ぼくは以前の二度の現身で改めないままにしておいた。これは友情をこめた陽気なお祈りでも、改めることはできまい。ぼくが不屈の努力を重ねることによってだけ、改めることができるのがせめてもだ。愛想のいい弱虫の神さまに、どうか口出しをして、ぼくの思い通りに混乱を一掃してくださいと、晴れがましく親しげに祈りを捧げることはできない。それは思っただけで、胃がむかついてくるのだ。しかしながら、もしぼくが急がないと、現世においては、人のうわさが、難なくぼくを没落の淵へ誘いこむ。ここへやってきてから、人間の悪意、恐怖、嫉妬、そして非凡な者への、責めさいなむような嫌悪に対して、寛大になろうと最大限の努力をしてきた。このせっかちな考えを、双子の弟たちに大声で読んできかせたり、万が一にもブーブーの耳に伝わることが永遠にないように。でも、落ちつかない顔に、狂おしい涙をいく筋も流しながら、今のこんな体たらくなら、人間の言葉に対して、ぼくが限りない望みをいだきつづける気持はないのだということを認めよう。
神秘主義とは「絶対者(神、最高実在、宇宙の究極的根拠などとされる存在)を、その絶対性のままに人間が自己の内面で直接に体験しようとする立場のことである。」という意味で、後年のサリンジャーは神秘主義的な傾向が深まっていったらしい。
7歳のシーモアは5歳の弟バディと一緒にキャンプに来ている。
その中で起きていることをシーモアは両親(ベッシーとレス)に手紙で語る。
シーモアはキャンプで起きている出来事、自分が置かれた環境、そこいる子供や大人、そして彼らをキャンプに預け、どこかに移動している両親、そういった諸々の決して心地よくない現実に対して、どう折り合いをつければいいのか困っているように思う。
愛想のいい弱虫の神さまに、どうか口出しをして、ぼくの思い通りに混乱を一掃してくださいと、晴れがましく親しげに祈りを捧げることはできない。それは思っただけで、胃がむかついてくるのだ。
この思想は「フラニーとズーイ」の「ズーイ」の章で、ズーイがフラニーに語る言葉とそっくりであり、ズーイは確実にシーモアの教えを受け継いでいる。
すべてはエゴだ、エゴだ、エゴだ。そしてまともな知性を備えた女の子がやるべきことは、そのへんにごろんと寝ころんで、頭を剃って、イエスの祈りを唱え、自分をほのぼのと幸福な気分にさせてくれるような、お手軽神秘体験を神さまに求めることなんだと
エゴへの嫌悪から全てを放棄し、苛立ちをぶつけ、巡礼の旅を夢見るフラニーへのズーイの痛烈な言葉。
神さまとは何か?
ズーイは言う。祈るなら自分の求めるイエスではなく、ありのままのイエスに向かって祈るべきなのだと。
現世においては、人のうわさが、難なくぼくを没落の淵へ誘いこむ。ここへやってきてから、人間の悪意、恐怖、嫉妬、そして非凡な者への、責めさいなむような嫌悪に対して、寛大になろうと最大限の努力をしてきた。
シーモアは寛大になることで何になろうというのだろう?
別に寛大になることにケチをつけてるわけでも、何者かが設定されていなければおかしいということを言いたいのではない。
でも、私はその先にあるのがいわゆる「神」なんじゃないかと思う。
サリンジャー=シーモアが偏屈なくせに憎めないのは、許したくても許せない自分を許せないことに苦しんでいるからだと思う。
その苦しみをひたすら自己に求めるけど、それも上手くいかなくて時に大人(両親)に痛烈な嫌味を叩きつけてしまう。そして、それをした後に、また自分の行いを自分で裁こうとする。
こういうループの根底にあるのは人類愛なんじゃないかと思うのです。
人が愛を説くのには色んな方法や色んなやり方、そして表現がある。
私はサリンジャーの作品には、サリンジャーなりの愛とそれに伴う苦しみを感じてすごく切なくなる。
全部許せなくたっていいじゃんって思う気持ちと、その潔癖が辿り着く果てを見てみたいという複雑な気持ちになります。
半分以上がサリンジャー作品への書評、考察で、それはこの作品に限らずです。たくさんの人がサリンジャーの思想、グラス家の人々について色んなことを考えて文章にしています。
やっぱり、愛は胸を打つな、と思う。それがストレートだろうが偏屈だろうが。