深夜図書

書評と映画評が主な雑記ブログ。不定期に23:30更新しています。独断と偏見、ネタバレ必至ですので、お気をつけ下さいまし。なお、ブログ内の人物名は敬称略となっております。

大工よ、屋根の梁を高く上げよ/シーモア-序章/サリンジャー~愛が悲しいものだということを神は知っている。~

≪内容≫

画一化された価値観を強いる現代アメリカ社会にあって、繊細な感受性と鋭敏な洞察力をもって個性的に生きようとするグラース家の七人兄妹たち。彼らの精神的支柱である長兄シーモアは、卑俗な現実を嫌悪し、そこから飛翔しようと苦悶する―。ついに本人不在のまま終った彼の結婚式の経緯と、その後の自殺の真因を、弟バディが愛と崇拝をこめて必死に探ってゆく…。

 

 

 

 「ナイン・ストーリーズ」と「フラニーとズーイー」の中に登場するグラース家の長男シーモアについて次男バディが語る、という作品なので 「ナイン・ストーリーズ」に収録されている「バナナフィッシュにうってつけの日」を読んでいた方が分かりやすいです。でも、読んでなくても成り立つ気もします。

 

 

 

 

 

 

画一化された社会で生きるということ 

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 サリンジャーって「キャッチャーインザライ」すごく有名だけど、すごくハードル高くない?って思いました。当時のアメリカ社会について少しでも知識をいれないと読み解けないのは私だけでしょうか。

 読書は別に楽しいとか何となく悲しいとか切ないとか、そういう読後感だって醍醐味なわけですし、大体の小説ってなんとなくのニュアンスなら伝わってくるんですが、サリンジャーのグラース家シリーズに関しては「???」ってことが多すぎて、むしろ分からないことが分からない状態に陥って、読後「で、何だっけ?」となってしまった。

 

 一度この本を読んでから、サリンジャー戦記/村上春樹・柴田元幸を読んで、もう一度読んだら「そういうこと?」とちょっとずつ参加できるようになった。

村上:(前略)要するに、社会と訣別して、森に入っちゃうしかないわけです。町や村の一角でこそっと静かに生きていくことができないんです。

 

柴田:つまり、ひきこもるという行為は、自己実現というアメリカ的義務を怠っているということになっちゃうんでしょうね。

 

村上:そう思います。アメリカの場合は、まず、自分が自分であるアイデンティティみたいなものをつくって、それが他の人とどう違うかということを言語的に、ロジカルに照明しなくてはならない。 

(サリンジャー戦記/村上春樹・柴田元幸より)

 サリンジャーの作品を読んでて思うこと↓

そんなに白黒分けなきゃだめかね??

 

 人は別に人を騙そうとかインチキしようとかいう悪意からではなく、自分の置かれてる状況や精神状態で、思いがけず反対側に振れちゃうときってあるじゃないですか。

 それをいちいち「あの時お前こう言ったやんけ!」と拾ってきたらそりゃあもう言われてる方も拾ってくる方も辛い。

とはいえ、どこまでも真っ直ぐ伸びていくものを絶対的に信じたい気持ちは分かる。

厳密にいって、彼の首筋はほんとうに汚れていた。彼がシャツの首のうしろに指をいれて、ちょっと見てくれと頼んだのは、そのときが最初でもなければ最後でもなかった。いつもそのあたりは、しかるべく清潔が保たれていたが、そうでないときはまるきりひどかった。

(大工よ、屋根の梁を高く上げよ)

 ここでシーモアという男性についてちょっと説明すると、彼は社会に上手く入り込めないグラース家の兄弟の長男であり、兄弟たちの精神的支柱であった。そんな彼はミュリエルという女性と結婚することになるのだが、結婚式をすっぽかしMにかけおちを提案。そして旅行先のホテルで拳銃自殺によりこの世を去った。

 

 上記引用文は語り手であり、兄弟の中で一番シーモアと過ごした時間が長かった次男バディのシーモアの思い出のワンシーンである。

愛が悲しいものだということを神は知っている。人間の声がこの世のすべてのものの神聖な本質を汚すのだ。

  これはシーモアの言葉。シーモアはミュリエルではなく、ミュリエルのむきだしの欲望に救われてる。

 

 「いつもそのあたりは、しかるべく清潔が保たれていたが、そうでないときはまるきりひどかった。」にしても「人間の声がこの世のすべてのものの神聖な本質を汚すのだ。」にしても、あまりに極端じゃないか?と思う。

 

 シーモア(というかサリンジャー?)はオールオアナッシングが好きなのかな?と思ってしまう。「ちょいと汚れてるくらい」とかっていう途中経過がない。

 

 でも、「人間の声がこの世のすべてのものの神聖な本質」という言葉は、この世のすべてのものには神聖な本質があると思ってるということですよね?

 いいか、悪いか、白か黒か、被害者か加害者か、どっちかに振り切らなければいけない恐れというか、そこに切迫したものを感じる。

 

これはたぶん、ひきこもることが許されない(中途半端な存在が認められない)社会だからこそ生まれた物語なのかなと思いました。

 

 

サリンジャーって青春小説というか時代小説なんだな、と自分の中のカテゴリー認識が変わりました。「ほかの人はみな正しくて、ぼくだけがまちがっているのだということはわかっていた。 」なんてことはたぶんないんだよなぁ、と思う。私も自分以外の人は皆器用で皆博識だと思ってた。だけど、それって勝手に他人を高い場所に置いて分かろうとしなかっただけのことなんだよなぁと思うし、自分が大人になることが怖いから、他人に押し付けて逃げてただけだって最近思い始めました。