≪内容≫
恋愛小説家の父をもつ山野内荒野。ようやく恋のしっぽをつかまえた。人がやってきては去っていき、またやってくる鎌倉の家。うつろい行く季節の中で、少女は大人になっていく。
久しぶりにピュアな恋愛小説を読んだ気がする。笑
読みやすく、中学生の主人公・荒野の成長、守られるだけの子どもから、守る強さを身につけていく過程が丁寧に描かれています。
読んでいる間は「がんばれー!荒野ー!」と、まるで初めてのおつかいを見ているような感覚で荒野を見守っていました。
桜庭さんの書く少女の心情に私はいつも共感して、懐かしさを感じてしまう。
桜庭さんの作品に出てくる主要人物の名前っていつも個性的・・・というか、"名は体を表す"となっているので、今回も未開の地という役割を主人公は背負っています。
少女って、確かに未開の地だよなぁ・・・。
恋ってつまりは所有欲?
遠くに行きたい、なにも所有したくない。
それって人間の一つの本能だと思う。
で、さっきの話だと、その本能を邪魔するもう一つの本能、所有欲が、恋じゃないかと思ってる
小説なので、こんなこと言う中一男子がおるかー!っていうツッコミはスルーします。まぁでも周りの大人が恋多き人だと、こんな心持ちにもなるのかな?
ずばり、恋とは所有欲だと思います。
これがないと成り立たない。
この所有欲が薄い人は、自分から好きになるってことが難しいと思います。
所有欲が強い人に引っ張られて恋愛に発展するしかない気がする。
こんなことを言っておきながら荒野に恋してしまう裕也。
なにも所有したくないって気持ちを超えてそばにいたいとか、その人と一緒に時間を共有したいとか、そういうのが恋なんだと思う。
だから恋には第一段階の障害として、自分の所有したくないという欲が立ちはだかる。
これを乗り越えられた者に恋は訪れる。
時に、相手が壁から手を差し伸べてくれても、身を乗り出して誘ってくれても、自分が乗り越えようと思えなければ恋にはならない。
この二人のピュアなやりとりにわくわくドキドキしちゃいました。
いや~いいなぁ。
好きになった人が義兄妹になるなんて。
こういうの中学生のとき憧れてたな。あと、両親が離婚したらどっちについていくか、とか。
恋しらぬ猫のふり
「日々ときめくというのは、素敵なことなんだよ。じつは」
倒れ伏しながらも、相変わらずきざに、パパが言う。
「まわりの女たちを、見てみなさい。大人という生き物は、そうそう、ときめいたりしないものなんだよ」
荒野は想像の中の、大人になった自分のことを思い返してみる。スーツに、ハイヒール。髪にはシャギー。そしてきっとつめにマニキュアをぬっている。
あの人は喫茶店に入っても、どきどきしないのかしら、と首をかしげる。初めての体験に心躍る、この日々・・・。
「そうして、そうなってからのほうが、人生は長い」
小説家で女の人をとっかえひっかえのパパは、誰にも気付かれていないと思っていた荒野の恋に気付いていた。
荒野は恋だけじゃなく、初めて一人で喫茶店に入ったり、友達だけで服を買ったり、友達の兄のエッチなDVDを見て吐き気を催したり、初めてをたくさん経験中。
この初体験のドキドキ感とセックスに対する嫌悪感。
分かるわ~!!!!
荒野と同じように、絶対こんなことするなんて無理!!!って思ってた中学時代。
そして、大人になるとときめくことは減っちゃうんですよね。
悲しいかな、いたしかたないと思ってしまう。
だって、初体験って一回きりなんだもの!なかったことに出来ないし!
あの新鮮さ、大人の仲間に入るドキドキ感っていうのは、大人になったらもう二度と味わえないのさ!!!悲
じゃあ何が楽しくて生きているの?ってことを考えてみると、ときめき度は下がっても全くときめいていないわけじゃないなぁと思いました。
大人になったって、夕焼けキレイで切ないなーとか、雨が降りそうな匂いだなーとか、もうすぐ桜が咲くなーとか、めっちゃ美味しいパン屋見つけたり!とか、うわー好きな作家発見!とか思ったり、世界が変わるようなときめきはないけど、小さな、一人っきりでニヤニヤしちゃうようなときめきならたくさんあるなと。
でも「人生こんなもんだよ」っていう諦めの方が強くなったら、ときめかないを通り越して世界が色褪せちゃう気がします。
恋愛や初体験だけが、ときめきをくれるわけじゃないので大人も大人で中々楽しいものです。恋知らぬ猫のふりはさすがにできないかなーと思う(する必要ないし)けど、ときめきは絶対にあった方がいいとは思います。
なれるならこのパパのように恋多き人になりたい。笑
少女から女へ
ふいに荒野の中から、からだの内の内から、なにかが溢れだした。とろりとろりと、あったかくて、まどろむような、でもどっか怖いー女の気配。日暮れた庭で、あの日、おーい、と呼びかけたときにからだの内でおおきく返事をしようとしたもの。
ほんとうはどこにもいない。
でも、どこにでもいる不思議な生き物。
おんな。
お母さんだって、学校の先生だって、お医者さんだって"おんな"。
社会の役割の方が大きいから普段はそんなこと思わないけど、大人になったって、恋してなくたって、おんなであり永遠に少女性を持っているんですよね。
自分が中学生のころは、荒野と同じように"守られる存在"でいることが当たり前だから、お母さんは母という女でも男でもない存在だった。
今思えば、母をおんなだと思っていないので私は文句を言いたい放題言っていた。
「ねぇお母さん、今回の米(うちは田舎から米が送られてくる)美味しくないから食べたくない」「どうして家のカレーは学校給食のように美味しくないのか」「お腹すいたよー(作ってあるおかずをおやつに完食)」「お母さんは一日中家にいて幸せなの?」
などなど。
思い出すと嫁いびりかのように文句を言っていた。母よごめんなさい。
母は「あんた本当にうるさくていやっ」とよく言っていましたが、母は自分以外にはまずいゴムのようなざる蕎麦を出し、「お母さんは仕方ないから残ったカレー食べるね」とかいう姑息な技を使っていたので、味覚の敏感さは母譲りだと思う。
女というのは、荒野のなれの果てなのかもしれない。
未開の土地は、綺麗に整頓されていく。
だけど、土地は変わらずにそこに在り続けている。
男という旅人がいつでも帰れる場所。
そこに女がいなくなれば、また別の女が来る。
女がいなくなった家に残された荒野は少女から女へと変わっていく。
私が桜庭一樹さんの作品を好きなのは、自分の中の少女性を思い出すからだと思います。大人になっても、いわゆる大人の恋ではなく、少女の恋に憧れちゃう。
男性は、おじさんになってもジャンプを買ったり、ゲームにハマったり少年の面影を表に出しても全然不自然じゃないのに、女性がおばさんになってりぼん買ったりキャラクターの文房具とかヘアゴムとかカバン使ってたらちょっと引くじゃないですか・・・。
女性って、大人になったら少女に戻れるときが少ない気がするんです。
だから恋愛至上主義が女性に多いのも、少女に戻れるからだと思うんです。
いつも周りに気を使って、集団で上手くいくように過ごしている女が、当たり前にしてきた気使いも忘れて、自分のことだけに集中して少女に戻ってしまうのが恋。
恋愛至上主義じゃない私は、桜庭さんの作品で少女に戻っているんだろうなぁと思う。
他にも趣味を通して少女に戻る人もいると思います。
そう考えると母はどんなときに少女に戻っていたのかなぁって思いますが、聞いたら「あんた何バカなこと言ってんの」って言われそうなので、やめておきます。
桜庭さんの作品を読むといつも思う。
ピュアな恋がしたい!!!!