≪内容≫
なぜ弱きわれらが苦しむのかー
原作 遠藤周作「沈黙」×監督 マーティン・スコセッシ
構想28年。
戦後日本文学の金字塔が、アカデミー賞®監督の手で完全映画化。
「人間にとって本当に大切なものとは何か」を描き出す渾身の超大作。
中学で「踏み絵」っていうキリスト教弾圧は習ったんですけど、「はい、これが踏み絵ですね~キリストの絵を踏ませてキリスト教信者かどうか判断していたんですね~はい!次は~」みたいな感じで、割とさらっと終ったところでした。
そして私の高校の修学旅行は長崎と島原だったんですけど、島原の日に班のみんなで「なにここ、なんもないじゃん!」っていう落胆を感じた場所でもあります。
もしこの映画を見たあと行っていたら、「やばい、あの拷問がこの海で・・・」とか思っていたかも。
本作は拷問と踏み絵がめちゃくちゃ出てきます。歴史映画ですが、宗教映画ではなく、信仰をテーマにした映画・・・になるのかな。160分と長いけど、苦ではなかった。
なぜ日本でキリスト教が根付かなかったか気になる人は見てみると面白いと思います。
長崎とキリシタン
本作は長崎の五島列島が舞台です。
フランシスコ・ザビエルでおなじみイエズス会の宣教師が日本にキリスト教の布教を目的として派遣されたが、その神父が布教どころか棄教したという信じられない噂が現地ポルトガルでささやかれた。
神父の弟子である二人の若き宣教師は、その噂が事実なのか確かめるために日本に渡ることを決意。途中の中国でキリシタンである日本人キチジロー(窪塚洋介)に出会い、キチジローに導かれ五島列島に辿り着く。
そこで二人を待ち受けていたのは、村人たちの温かな迎えと政府の弾圧だった。自分たちを新たな神の使いとして心から迎え入れる村人たちが政府によって拷問の末に死んでいく日常を見て神父の心は迷い始める。
改めさせるという事
仏の道は人に尽くすこと
キリストもそうだろ
どちらも変わりはない
一方に引き入れなくともよいのだ
似ているのだからな
私がびっくりしたのは、政府が決してキリスト教を非難、否定していたわけじゃないということです。(実際は分からないけど)
この物語では、なぜ人々がキリスト教を信じたのかは描かれていません。布教行為もありません。なので、村人たちがなぜ熱心なキリシタンになったのかは分かりません。
キリシタンである村人は、踏み絵や十字架に唾を吐きかけろ!という命令にどうしても従うことができず、処刑されていきます。
それを見た司教は「踏み絵をしていい!踏め!転べ!」と言いますが、それでは意味がないのです。
どんどん目の前で殺されていく日本のキリシタン達を見て、司祭は分からなくなってきます。
"キリスト教国 日本"という身勝手な夢で
デウスはお前らを通じて日本を罰してる!
救うために日本にきたのに自分たちが来たせいで殺されていく村人たち。
死んでいくのは自分を信じてすがってきたものたちです。そして自分は罰せられずに見ているだけ、祈るだけ。祈るだけでは何にもならない。
それでもまだ司祭はどうしたらいいのか、神の言葉を待ち続ける。
なぜ日本はキリスト教が根付かなかった?
人間を超えるものはないのだ
祈りは救いへの一歩だと信じながら、目の前では自分の教えを信じたばかりに死んでいく人たち。思わぬ展開に悩む宣教師の前に棄教した元司祭が現れます。
彼が棄教したということが信じられなくてやってきたのに、今はもう自分も揺れ始めている。そんな若き宣教師に元司祭はこう告げる。
「キリスト教の信仰を守り死んだのではない 皆お前のために死んだ」
と。
日本人の信じるという意味と、司祭たちの信じるという意味は同じ「信じる」だけど違う。
目には見えない神様のためでなく、祈りや救いのためでなく、自分のために殉教したのでもなく、自分を救ってくれた生きている人間のために死んだのだと。
役人たちは踏み絵をさせるとき、「こんなのは形式だから、ちゃっちゃと済ませようぜ。俺もこんなのめんどくさいしどうでもいいしさ」みたいな感じで語りかけます。
だけどキリシタンは耳を貸しません。
宗教の危ないところはこの耳を貸さないことにあると私は思う。
自分が信じている宗教を信じている自分を信じているから、他人がどうこう言っても意味がない。そういう宗教は本人だけじゃなく他人にとっても危険です。宗教に限らず、他人の意見に耳を貸すことができない人物って危険に感じませんか。
私は宗教に関して興味はあれど、他人にあれこれ介入はしたくないし、否定もしたくありません。
だけど実際問題、危険に陥る場面というのは、本人が他人の意見に耳を貸さない状態になったときに訪れると思っています。
信じるとか信じないとかは役人にとってはたぶんどうでもいいことだったんだと思います。
ただ耳を貸すか、貸さないか、だけだったんじゃないかな、と。
信じることは自由です。
だからそれをいちいち提示しなくていい。
「沈黙」とは、そういうことだと私は感じました。
誰にも知られなくても、口にしなくても、自分の中で信仰は生き続けられるし、沈黙することで、血を見なくてもいいなら、危険をおかしてまで、或いは命をかけさせてまで、行う必要はない・・・と思いました。
人の心に干渉してはならん。
人って弱い生き物だから、強い言葉や、影響力がある人間が発する言葉でかんたんに揺らいでしまう。
だからこそ、語る人間、教えを授ける人間、ただのコミュニケーションの中の会話だって乱暴に扱ってはいけないよなって、すごく思います。
遠藤周作の作品全部読みたいなって思いました。