≪内容≫
夫を四度殺した女、朱美。極度の強迫観念に脅える元精神科医、降旗。神を信じ得ぬ牧師、白丘。夢と現実の縺れに悩む三人の前に怪事件が続発する。海に漂う金色の髑髏、山中での集団自決。遊民・伊佐間、文士・関口、刑事・木場らも見守るなか、京極堂は憑物を落とせるのか?著者会心のシリーズ第三弾。
京極堂シリーズ三作目。
今回は情報量がすごい。
宗教、密教、天皇、神話、フロイトの精神分析、寺、神社、基督教・・・
何度も同じ夢を見るなら、それは夢ではないのかもしれない。
骸骨は陽気
骸骨系統の妖怪は本来煩悩から解き放たれて陽気にはしゃぐような一面も持っているんだね。仮名草子の「二人比丘尼」に出てくる骸骨達も、骨を鳴らして歌い踊り、腐る部分が落ちた自分達こそ人の本質だ、と現世の無常を笑い飛ばす。ゲエテの「ファアウスト」に出て来るレムルと云うのも骸骨だが、奢覇都(サバト)で歌い踊るだろう?
そうなんですよね。
あんぱんまんのホラーマンしかり、ワンピースのブルックしかり、陽気ですよね~。
全然怖いイメージがない。むしろ明るい。
歌うしゃれこうべとかもあるし。
ホラー映画でも骸骨ってないじゃないですか。
幽霊とか絶対人間の容してる。
しかし本作は骨の話であり、髑髏を巡る話なわけです。
怖くないのに、怖くなった。
それはなぜか?
それは前作で亡くなったある人物の葬儀のときに京極堂が話した説法の中にあります。
故人が死に臨んでどのような考えを巡らせたのか、それは私達には計り知れぬこと。その瞬間に彼が地獄を見たのか極楽を見たのか、そんなことは仮令、個人のただひとりの血縁者ーここにいらっしゃる喪主とても想像できぬことですし、またどうでも善いことでもあるのです。
生きている彼の人生はそこで終わっている。
そして死後の彼を造るのは私達です。
ああ、私はあの世がないと申し上げている訳ではありません。
死後の世界は生きている者にしかないと云っているのです。
この世界の登場人物は生きている者であり、死後の世界は私たちの想像の域を超えて存在することは不可能である。
人が何を信じ、何に希望を見出し、何に怯えるかは自由です。
だけど、死んだ者はそこで終わっている。これは確固たる事実。
すなわち、死後の彼を造るのは私達です。
そして私達は彼ではない。
歌う骸骨と土地の穢れ
歌う骸骨っていう怪談があります。
有名な話なのでほとんどの人が知っていると思います。
私は日本むかしばなしとかで見たのかな?
ある日男が山を歩いていると、どこからが歌が聞こえてくる。歌声に引き寄せられるようにその場所に行くとなんと髑髏が歌っているではないか。
これは金になるぞ!と思った男は髑髏を山から持ち出し、お偉いさんの前で歌わせて金を貰おうとするも、髑髏は一切歌わない。
今まで明瞭に歌っていたのに、髑髏はうんともスンとも言わない。
怒ったお偉いさんに男は処刑され、息を引き取ったあと髑髏は話しだした。(歌いだしたかもしれない)
という、簡単にこんな話です。
本作で髑髏は話しだしたり歌いだしたりはしないけれど、ほくそ笑んでいるんじゃないか、と思いましたね。してやったり・・・みたいな。
皆髑髏や骨に踊らされます。
現実の世界に生きながら。
そしてもう一つは土地に残る穢れ。
この言葉の意味を描いた作品はこちら。
読んだんですけど、書いたら穢れにさわりそうだったので書評しなかった(出来なかった)作品。怖くて部屋に置いておけない。
この「狂骨の夢」の夫を四度殺した女、朱美の住んでいた家に、この家を建てた者の思いが強烈に残っていると思いました。
故にこの惨劇が生み出されたといっても全然過言じゃないと思う。
ちょっとスピリチュアルかつ私の独断と偏見過ぎる解釈になりますが、じゃあ朱美はこの家に住まない選択肢はあったのか?となるとなかったような気がするんです。
というのも、こういうのって呼ぶと思うんですよ。
呼応するというのかな。
だからこの話はめちゃくちゃ怖いです。日本的怖さ。
おかしいでしょ?普通に考えて!!!!
こんなん狂うだろうが!!!!!
って感じです。
しかも、邦画ホラーに救いが少ないという例に漏れず、本作も報われない。
卑しさを捨てよ!
それらが卑しいのはやり方や考え方の問題ではない。いずれも下賤な現世利益が眼目に据えられているからだ。そんなものは立川流にとってどうでもいいことなんですよ__さん
本作の中で最も強烈かつ、興味をそそられるのは立川流だと思う。
その内容に触れると面白さが9割減すると思っているので、全く触れることが出来ない。
ただそれは密教であるということだけ書いておきます。
気になる方はぜひ読んでみて、どっきりわくわくして頂きたい。
その楽しみのなんたることや。
そもそも宗教だって自分一人が信じてる分には何の問題もないし、他人にひそひそされる謂れもないわけです。
だけど、それを良かれと思ってとかいう自分に都合のいい解釈に変えて他人の領域に踏み込むからタブーになるんだと私は思っています。
もしくは教祖や信者が邪な営利目的や不当不順な動機で始めたとか。
そうなるとどんどん本質が変わっていってしまう。
この立川流を造り上げた人はすでに死んでいるわけだから、彼らがどういう思いや信仰で造り上げたのか知る由はありません。
例えば文字として残されていたり、彼ら本人に聞いたという人間や彼らの末裔がいたとして、それが真実である可能性なんてどれだけあると思いますか?
京極堂シリーズで話されたことですが、私達は歴史上の人物に会っていないくせに歴史の内容は実際に起きたことだと信じる。
なのに妖怪や怪談は信じない。
どちらもその時代に生きた人間に話を聞いた訳でもないし、どちらも資料が残っているのに。
最初に戻りますが、先人が残した世界に生きるのは私たちで、死後の彼らを造るのは私達なわけです。
だから私達が卑しければ、先人たちがどれだけ純粋な思いで造ってきたものも卑しくなってしまう。
本書はほんとうに悲しいです。
私はこのシリーズの時代設定がなぜ戦後だったのか、ということをずっと疑問に思っていたんですが、この作品は戦後でなければ有り得ない、という感じがしました。
この話のために戦後設定にしたのかしら?と思ってしまうほど。
破壊と再生の時代。