≪内容≫
1995年1月、地震はすべてを一瞬のうちに壊滅させた。そして2月、流木が燃える冬の海岸で、あるいは、小箱を携えた男が向かった釧路で、かえるくんが地底でみみずくんと闘う東京で、世界はしずかに共振をはじめる……。大地は裂けた。神は、いないのかもしれない。でも、おそらく、あの震災のずっと前から、ぼくたちは内なる廃墟を抱えていた――。深い闇の中に光を放つ6つの黙示録。
本作「神のこどもたちはみな踊る」は、村上春樹短編集の中で一番好きな作品たちかもしれない。
「踊る小人」が今までは一番好きだったけれど、本作もとてもよかった。
かえるくん、東京を救う
いずれにせよ、すべての激しい戦闘は想像力の中でおこなわれました。それこそがぼくらの戦場です。ぼくらはそこで勝ち、そこで破れます。もちろんぼくらは誰もが限りのある存在ですし、結局は破れ去ります。でもアーネスト・ヘミングウェイが看破したように、ぼくらの人生は勝ち方によってではなく、その破れ去り方によって最終的な価値を定められるのです。
本書の登場人物達は皆1995年1月に発生した阪神大震災に間接的に関わっています。
そのせいか、本書は『死』がテーマにされているように感じます、生き方ではなく死に方にスポットを当てたような作品たちです。
たぶん私たちは普段無意識に当たり前に「生」を感じてると思うのです、しかし地震という非常事態が起きたことで「死」が呼び起こされた。
当たり前にくるはずだった明日、平凡な毎日、そういうものが壊されたとき、亀裂した地面から出てきたのは「死」だったのだと思います。
本書の六編はどれも胸に迫ります。どれも私にとって素晴らしい作品でした。だから、今回は六編すべて紹介したいと思います。掲載順ではありません。
本作「かえるくん、東京を救う」は題名通り、かえるくんが東京を救う話です。ただ、そのことを主人公とかえるくん以外は知らないし、そもそも主人公とかえるくんは知り合いでもなんでもありません。ある日、主人公の家にかえるくんがいて、一緒に戦ってくれと頼むのです。
ニーチェが言っているように、最高の善なる悟性とは、恐怖を持たぬことです。片桐さんにやってほしいのは、まっすぐな勇気を分け与えてくれることです。友だちとして、ぼくを心から支えようとしてくれることです。わかっていただけますか?
最高の善なる悟性とは、恐怖を持たぬことです。
これね、めちゃくちゃ「うしおととら」を感じました。
うしおととらに出てくるラスボスを強くするのは人々の恐怖心なのです。人々の恐怖心が化け物を育てるのです。
あなたがぼくのうしろにいて、『かえるくん、がんばれ。大丈夫だ。君は勝てる。君は正しい』と声をかけてくれることが必要なのです
闘うということは、実際に手を挙げたり実際にその場に行ったり、目に見える何かをすることだけじゃなくて、闘う相手を信じるということでもある。
こんなことを言うと、そんなのはキレイゴトだと言われてしまうかもしれない。だけど、ヒーローになれるのがたった一人の選ばれし少年やかえるくんだったとしても、その他大勢の人間に出来ることがないわけではない。
むしろ、ヒーローは集団の中からこそ生まれる。
ヒーローが強さに変わる資質を持っていたとして、それを正しい方向に導くのはその他の民衆なのだと思う。
何も出来ない人間はたぶんいない。
タイランド
これからあなたはゆるやかに死に向かう準備をなさらなくてはなりません。これから先、生きることだけに多くの力を割いてしまうと、うまく死ぬることができなくなります。少しずつシフトを変えていかなくてはなりません。生きることと死ぬこととは、ある意味では等価なのです、ドクター
主人公は更年期に入った女性、さつき。舞台はタイです。
彼女はタイでの案内役・ニミットによってある老女のところへ連れていかれました。
そしてこう言われるのです。
あなたの中に白くて堅い石がある、と。
それは古いものなので、あなたはきっと長年にわたってそれを抱えて生きてきたのでしょう。あなたはその石をどこかに捨てなくてはなりません。そうしないと死んで焼かれたあとにも、石だけが残ります
私は、この石は彼女が生きるために捨ててきた感情なのだと思います。
生きるために、目をつぶらなきゃいけなかったこと、耳を覆ってしまわなければならなかったこと、心を停止させてしまわなければならなかったこと。
それは全て生きるために必要なことでした。
しかし、生きていった先にあるのは死です。
生きることと死ぬこととは、ある意味では等価なのです、ドクター
彼女は今、自分が見ないようにしてきた部分が集まった石に再度目を向けなければならないところに立ったのでしょう。
憎しみを抱えたまま生きることに限界がきたことを身体が知らせたように思いました。
神の子どもたちはみな踊る
僕らの心は石ではないのです。石はいつか崩れ落ちるかもしれない。姿かたちを失うかもしれない。でも心は崩れません。僕らはそのかたちなきものを、善きものであれ、悪しきものであれ、どこまでも伝えあうことができるのです。神の子どもたちはみな踊るのです。
これは私の中でダンスダンスダンスを彷彿とさせる作品でした。
踊る=生きるということですね。
本作の主人公・善也の父は『お方』という、母の入っている宗教における神様であった。母は避妊しているにも関わらず何度も妊娠し堕胎を繰り返した。堕胎手術を担当した先生と恋仲になり、避妊講座を受けながらまぐあうも、善也を妊娠してしまう。
先生は完璧な避妊を行ったはずだから自分ではない、母が他の男と性行為をして出来た子供だとして善也を認めることはなかった。
絶望した母が自殺しようと思ったときに、田端という男に出会い、それは神からのお告げだと諭され母は自殺をやめ、善也を生んだのだった。
善也という名前は田端さんが付けたもの。たぶんヨシュアから来ているんだろうと思います。善也はある日、自分の現実的な父親を見つけ尾行します。
音楽の鳴っている間はとにかく踊り続けるんだ。おいらの言ってることはわかるかい?
踊るんだ。踊り続けるんだ。
何故踊るかなんて考えちゃいけない。意味なんてことは考えちゃいけない。意味なんてもともとないんだ。
(ダンス・ダンス・ダンスより)
生まれた意味だとか、自分の父親らしき人物と会ってどうしたいのかとか、なぜ完璧な避妊をしたのに子供ができたのかとか、キャッチャーフライが取れるように神様にお願いしちゃいけないのかとか、生きていると色んな不思議にぶちあたる。そしてそれに対しての一遍通りの答え、絶対的な答えというものは、ある場合は人を救い、ある場合にはその人を縛る。
生きるということが踊り続けるということならば、凝り固まった思想や、あまりに強固な戒律は心臓を止めるきっかけになる。
神の子どもたちはみな踊る。誰もそれを止めることは出来ないし、止めてはいけないのだ。
アイロンのある風景
「冷蔵庫の中に閉じ込められて死ぬのや」と三宅さんは言った。
焚き火を見ながら三宅さんと順子は一緒に死のうと話をする。
「少し眠っていい?」と順子は尋ねた。
「いいよ」
「焚き火が消えたら起こしてくれる?」
「心配するな。焚き火が消えたら、寒くなっていやでも目は覚める」
起きている今が現実なのか、それとも眠った世界が現実なのか、こんがらがるようなお話。本作の中では一番好きかもしれない。
このお話は焚き火の描写がすごく素敵ですごく切ないので是非読んでもらいたいです。
このお話の冷蔵庫と次に紹介する「蜂蜜パイ」に出てくる地震男は私の中で同じようなものです。これはオウム関連の本を読んだ時に感じた「小さな箱」という概念とすごく似ています。
「約束された場所で―underground 2」の記事を読む。
誰かの思想という箱の中に収められてしまう。
それはすごく怖い。この怖さを書いているのが「アイロンのある風景」だと思うのです。社会というシステムに適合できない二人、そして小さな箱にも入りたくない二人。そういう人たちの孤独、苦しみ、そういったものを描いているような気がします。
物事は単純に二極化で成り立っていない。その二つにも属せない人たちがいる。
蜂蜜パイ
「地震のおじさんがやってきて、さらを起こして、ママに言いなさいって言ったの。みんなのために箱のふたを開けて待っているからって。そう言えばわかるって」
大震災が起きてから、娘の沙羅は地震のおじさんと夢の中で会うようになる。母の小夜子は困って主人公である淳平に助けを求める。
小夜子の夫・高槻と淳平、小夜子は大学生からの付き合いで淳平は小夜子が好きなのだった。だが、小夜子は高槻と付き合い結婚した。そして、離婚したのだった。
村上春樹作品のよく分からないと思うひとつがこの三人関係です。私はあまり惹かれる部分ではないので特に掘り下げませんが、何か意味があるのか?と思ってしまう位割と出てくる設定ですよね。
地震のおじさん=地震男なんですが、この男の言う「みんなのために箱のふたを開けて待っている」というのは、恐らく人々が大きな地震によって失った、もしくは脆くなった部分につけ込むような世界を意味しているんじゃないか、と思うのです。
漠然としていますが、良くない世界です。
冷蔵庫と一緒で、誰か一人の思想に身を委ねるような世界、もしくは外界をシャットアウトするような閉ざされた世界のことだと思います。
でも今はとりあえずここにいて、二人の女を護らなくてはならない。相手が誰であろうと、わけのわからない箱に入れさせたりはしない。たとえ空が落ちてきても、大地が音を立てて裂けても。
この文章で本作は終わっています。
私も思う。大切な人をわけのわからない箱に入れさせたりなんかさせない。
その箱の存在に気付いてしまった繊細な人達は、それでも箱から抵抗している。箱を抵抗することはすごく怖いように思う。
昔、「ぼのぼの」のしまっちゃうおじさんがすごく怖かった。
そんな怖い思いはしたくないし、させたくない。
ちなみに表題「蜂蜜パイ」は高槻と淳平のお話です。おそらく沙羅の話す地震男よりメインは高槻と淳平のお話です。二匹の熊の話。これもまた魅力的です。
UFOが釧路に降りる
彼が眠りにつくときにも彼女はまだ、深夜ニュースの画面をにらんでいた。沈黙の石壁がそのまわりに巡らされている。小村はあきらめて、声をかけることさえやめてしまった。
そして彼女はいなくなって、小村は一人になった。
彼女は震災のニュースをじっと見ていました。震災は彼女と小村の世界を真っ二つに裂きました。離婚届に判を押し、小村は一週間の有休を取ることにした。
それを知った同僚の佐々木が小村に頼みごとをする。
釧路まで小さな箱を届けてほしい、と。
さて、その箱の中身は何なのか。
中身とは、何なのか。
「でも、まだ始まったばかりなのよ」と彼女は言った。
何事も起きた直後に痛みや苦しみが始まるのではない。
それは長い間自分の中で眠りつづけ、ある時覚醒するかもしれない。
UFOが降りる、とはそういうことじゃないのかな、と思う。
例えばPTSDは長い時間を経て発症する場合もある。
他人はそれを「いきなり」「脈絡もなく」「突拍子もなく」と思うかもしれないけれど、それはその人のなかに潜伏していたのだ。
そしてある時、UFOにさらわれてしまうのだ。
悲しみも苦しみも何年経てば癒えるとか、消えるとか、そういうものではない。
何でもそうですが、人それぞれなのです。
震災が起きた日は誰にとっても同じ日だけれど、スタートは人それぞれ。
そしてそこに気付いたときから始まるのです。
神の子どもたちはみな踊る。