《内容》
郊外の書店で働く「僕」といっしょに住む静雄、そして佐知子の悲しい痛みにみちた夏の終わり…世界に押しつぶされないために真摯に生きる若者たちを描く青春小説の名作。読者の支持によって復活した作家・佐藤泰志の本格的な文壇デビュー作であり、芥川賞の候補となった初期の代表作。珠玉の名品「草の響き」併録。
人でも物でもなんでも本当に好きだ・・・と思う時、言葉が出ない。何がこんなに自分を恍惚とさせるのかわからないから好きという言葉しか出ないのだ。
私にとって佐藤泰志さんはそんな作家さんだ。何か劇的な展開があるわけでもとんでもないセンチメンタルなわけではない、ただ淡々と過ぎていく日常がどうしてこんなにかけがえのない美しい一瞬に感じるんだろう。そんな作品。
きみの鳥はうたえる
いつだったか雨の夜に三人で傘に入って通りを歩き僕が感じたこと、そのうち僕は佐知子をとおして新しく静雄を感じるだろう、と思ったことは本当だった。静雄が母親を見舞って帰ってくれば、今度は僕は、あいつをとおしてもっと新しく佐知子を感じることができるかもしれない。
すると、僕は率直な気持のいい、空気のような男になれそうな気がした。
主人公の僕とルームメイトの静雄、それから僕のバイト先で知り合った佐知子の物語。バイト先の店長とデキていた佐知子からの誘いで僕は佐知子とセックスする。そしてカンダタのように優しい静雄と三人で会うようになる。
僕は佐知子に静雄を紹介し、佐知子と静雄は恋人になる。僕はバイト先での怠慢について同僚とやり合う。静雄は失業保険が切れて兄にお金をもらっていたが、母親が精神病院に入院したという知らせを受け取り兄と共に母を見舞うが…
草の響き
熱ある眼で冬の樹々を見つめ枯れた草をランニングシューズで踏みしだく。怒りに似た感覚が身内に広がり、何キロでも今夜は走り続けていようと決めた。何キロでも、とにかく僕が怒りを持っているとしてそれが本当のものになるまでは。
主人公の僕は自律神経失調症と診断され、走るよう主治医から言われる。精神を苛まれた僕はただひたすらに走り続ける。腹の出たおじさんやヤンキーのような男女に出会い共に走る。そうして出会った若者の一人が死んでも僕は僕として走り続けなければならない。
「きみの鳥はうたえる」の主人公はコミットメントを拒否しデタッチメントでのコミュニケーションを求める。これは「黄金の服」の僕もそうであるが、生身の自分で相手に体当たりすることができないのだ。何かを通してしか他人に触れられない。
「率直な気持のいい、空気のような男」とは、怒りや嫉妬、つまりこの時代のいわゆる”闘争”とはかけ離れた人間のことを指していると思われる。クールになれ、がかっこいい時代だったのだろうか。(同年代の村上春樹もこんな感じですよね)
だが、人の生きるエネルギーというのは大抵”怒り”である。許せない、なぜなんだ、と反発する感情は爆発的な生命エネルギーだ。岡本太郎のようなエネルギーである。だからそのエネルギーを無視しようとすると生と真反対の方に自分が向かう。そうして病に襲われるのが「草の響き」の主人公なのだ。
自分の感情に蓋をしていた主人公が自分から生まれた感情、今ほのかに感じている怒りを本物だと感じられるまで走ろう、というのはつまり走ることは生きることなのですね。村上春樹がダンス・ダンス・ダンスで、生きることをダンスに喩えたように。
音楽の鳴っている間はとにかく踊り続けるんだ。おいらの言ってることはわかるかい?
踊るんだ。踊り続けるんだ。
何故踊るかなんて考えちゃいけない。意味なんてことは考えちゃいけない。意味なんてもともとないんだ。
「きみの鳥はうたえる」のラストは「そこのみにて光輝く」と同じ。主人公は人との距離感を保ちながらも人懐っこくて繊細な相方に憧れる。だが、その憧れは世間に呑み込まれてしまい僕は結局憧れの存在の墜落を見届けるのだ。
どこまでも悲しくて美しいと感じる佐藤泰志ワールド。でも実際はものすっごいキツイんだろうな、だから自ら逝ってしまったのだろうか、そう思わずにはいられないのでした。