≪内容≫
致命的な記憶の死角とは?失踪したクミコの真の声を聴くため、僕は井戸を降りていく。
第二部はタイトル「ねじまき鳥」のねじについての話が出てきます。
自らを「ねじまき鳥」という主人公は、笠原メイに「ねじまき鳥さん」と話しかけられます。
最初は主人公が何とも無しに思い付いて言ったのかな、と思っていましたが、これは仮名でもあだ名でもなくて、もう一つの彼の役割なのだと分かってきます。
綿谷ノボルが引き出すもの
第一部で加納マルタから、妹のクレタは綿谷ノボルに汚された・・・という告白がありました。
第二部ではその内容が語られます。
加納クレタは肉体の娼婦でした。
そして最後の客が綿谷ノボルでした。
肉体の娼婦になる前のクレタは痛みに耐える日々に絶望し自殺未遂を起こしました。
その車で事故を起こしたのです。
しかし命を落とすことはなく痛みだけが消えました。
その事故にかかるお金のために始めたのが娼婦でした。
彼女は痛みを感じないので、肉体の娼婦は苦痛ではありませんでした。
しかし綿谷ノボルはクレタの中から痛みを引き出しました。
そのような痛みと快楽の中で、私の肉はどんどん大きく裂けていきました。私にはもうそれを止めることはできませんでした。それから奇妙なことが起こりました。そのぱっくりとふたつに裂けた自分の肉の中から、私がこれまでに見たことも触れたこともなかった何かが、かきわけるようにして抜けだしてくるのを私は感じたのです。
(中略)
それはもともと私の中にあるものでありながら、私の知らないものなのです。でもこの男が、私の中からとにかくそれを引き出したのです。
綿谷ノボルが引き出したものはなんだったのでしょうか?
私は無意識の欲望だと思います。
本田さんが言うように「世の中には知らない方がよいこともあるのです」。
今の自分自身に何の後ろ暗いこともなく、善人として生きてきて、善をなすことを喜びと感じていて、それこそが自分なのだと思っていたとして、それは果たしてどこまでが本当の自分なのだろう?
というか、自分は自分を分かりきっているのだろうか?
「私ってこういう人間だからさ」のこういうとはどういうことだろう?
そしてそれは決定事項であり、揺るがされることはないのだろうか?
そんなことはない。
おそらく、今知っている自分は氷山の一角にしか過ぎないのだと思います。
だけど自分自身なわけだから、感覚的な痛みや不快などを通じて自分を確立してしまう。
私はこれが嫌い、これが好き、気持ちいい、気持良くない。などなど。
自分の内に何が潜んでいるかなんて自分自身にも分らないことで、それはおそらく知らない方がよいことなのかもしれない。
だけど、それを引き出すのが綿谷ノボルなのです。
彼は人の内に潜むねじを緩めることが出来る。
そして緩められた人間は、私の中にあるものでありながら、私の知らないものを発見することで戸惑い混乱する。
その戸惑いや混乱、恐怖につけ込むのではないかと思います。
ねじまき鳥とは
ねじまき鳥はその辺の木の枝にとまってちょっとずつ世界のねじを巻くんだ。ぎりぎりという音を立ててねじを巻くんだよ。ねじまき鳥がねじを巻かないと、世界が動かないんだ。でも誰もそんなことは知らない。世の中の人々はみんなもっと立派で複雑で巨大な装置がしっかり世界を動かしていると思っている。
でもそんなことはない。
本当はねじまき鳥がいろんな場所に行って、行く先々でちょっとずつ小さなねじを巻いて世界を動かしているんだよ。
第一部で間宮中尉が水のない井戸に入って光を見た話が語られました。
そして、主人公も空き家(宮脇さん家)の水のない井戸に入ります。
おそらく水のない井戸というのは、ねじが緩められ止まった世界なのだと思います。
この井戸がある空き家はいわくつきの物件で、住んだ人にはまずいことが起きるとのことでした。
環境もいいし、高台で日当たりもいいし、土地もひろいしね、みんなあそこは欲しがるんだ。でも彼もその前に住んでいた人たちについての暗い話は聞いていたから、とにかく家は土台から全部壊して、新しい家を建てなおした。御祓いだってしてもらった。しかしそれでも駄目だったみたいだね。あそこに住むとろくなことはないんだよ。世の中にはそういう土地があるんだ。
/ねじまき鳥クロニカル第一部♦泥棒かささぎ編より
ねじが緩められた井戸からは、人々の無意識の欲望がしみでているのだと思いました。
無意識の欲望というのは理性のないことであり、停滞しているものです。
理性のない欲は残虐非道なことも厭わないし、停滞しているものには先導する何かが付随する可能性があります。
本書は恐らくクロニクル(年代記)というタイトルからするように巡る物語なのだと思います。
そうでなければノモンハンの戦いにおける間宮中尉と主人公のシンクロっぷりの理解が出来ません。
形見分けに間宮中尉を指名した本田さんは、間宮中尉と主人公を繋ぎ合わせる役回りをしっかり請け負いました。
そして、間宮中尉は自分の物語を語ることで主人公に助言をしているという形になっています。
間宮中尉が目にした理性のない残虐非道な殺人は戦争だからという意味合いで語られたのではなく、形を変えて現代にも理性のない残虐非道な行為があり、それを主人公は目にしているか、目にすることになるのでしょう。
「ねじまき鳥クロニクル」とかいうファンタジーなタイトルに騙されたと言いたいくらい内容はハードかつ重くグロテスクです。
なんだかダンスダンスダンスで辿り着けなかったもう一つの場所へ行こうとしている物語に思えます。
終わってから気付くのではなく、終わる前に気付き、諦めず、投げ出さず、手遅れになる前の段階へ行くのではないか・・・と思っています。
続きが気になりすぎて止まらないから連日寝不足で辛い・・・!