≪内容≫
僕は少しずつ核心に近づいている。猫は戻る、笠原メイは遠い場所から手紙を書き続ける、間宮中尉はもうひとつの秘密を打ち明ける。ねじまき鳥に導かれた謎の迷宮への旅。第3部完結編。
新しい重要なキャラクターが出てきます。
この作品は今までの村上さんの作品と大分色が違うように感じました。
それはわたしにひとつの悲しい結論を導きました。
赤坂ナツメグとシナモン
赤坂ナツメグは主人公を自分の後継者にしようとしていて、シナモンはナツメグの息子であり部下です。
二人は主人公の味方です。
赤坂ナツメグの仕事というのは、人のこめかみあたりに手を当てて、その中で動いている何かを捕らえようとする。
それだけです。
シナモンは言葉を封じられているので、電話だろうが対面にいようが話しません。手の動き、唇の動き、コンコンという合図でコミュニケーションを図ります。
この奇妙な親子の奇妙な過去は物語の要になるような気がします。
なのでもっと早くに出ててもおかしくなさそうな感じなのですが、赤坂ナツメグを主人公からは見つけることは出来ません。
主人公が井戸にこもった後に浮かび上がったあざこそが、赤坂ナツメグが主人公を見つけるために必要なものでした。
二人が出会うには赤坂ナツメグの方が主人公(というか祖父と同じあざを持った男)を見つけることが前提なのです。
ナツメグよりシナモンの方が重要人物です。
このねじまき鳥クロニクルという年代記の作者はおそらくシナモンです。
作者は物語の中のプレイヤーになることはできません。
ねじまき鳥クロニクルの登場人物はシナモンの祖父、間宮中尉、主人公、そして綿谷ノボルと間宮中尉が出会った皮はぎボリス、そして何者かに殺されたシナモンの父です。
僕はこのあざによって、シナモンの祖父(ナツメグの父)と結びついている。シナモンの祖父と間宮中尉は、新京という町で結びついている。間宮中尉と占い師の本田さんは満洲の蒙古の国境における特殊任務で結びついていて、僕とクミコは本田さんを綿谷ノボルの家から紹介された。そして僕と間宮中尉は井戸の底によって結びついている。
間宮中尉の井戸はモンゴルにあり、僕の井戸はこの屋敷にある。
ここにはかつて中国派遣軍の指揮官が住んでいた。
すべては輪のように繋がり、その輪の中心にあるのは戦前の満州であり、中国大陸であり、昭和十四年のノモンハンでの戦争だった。
でもどうして僕とクミコがそのような歴史の因縁の中に引き込まれて行くことになったのか、僕には理解できない。
それらはみんな僕やクミコが生まれるずっと前に起こったことなのだ。
ノモンハンでの戦争は間宮中尉を空虚にしました。
あの井戸の中で恩寵を奪われた間宮中尉は死んだように生きることになりました。
間宮中尉は昭和十四年の時代におそらくねじまき鳥だったのだと思われます。
そして、現代のねじまき鳥の後継者は主人公、岡田トオルになったのです。
間宮中尉が成し遂げられなかったことをするために。
ねじまき鳥がねじを巻くとき
誰かが死んだり、消えたりします。
正義と悪のゴングの音でもあります、賽が投げられた瞬間という感じでしょうか。
ねじまき鳥クロニクルは今までの短編集の題材が結構採用されている気がします。
「ねじまき鳥と火曜日の女たち」はもちろん、「沈黙」、「納屋を焼く」あたりも入っている気がします。
レキシントンの幽霊/村上春樹の書評で「沈黙」について書いたのですが、この内容と同じものが後半に出てきます。
僕は綿谷ノボルを野球のバットで殴ってはいない。僕はそんなことをする人間じゃないし、だいいちもうバットだって持ってないのだ。でも彼らは僕の言うことを信じないだろう。
彼らはテレビの言うことをそのまま信じているのだ。
↑太字は本書の通りです。
僕のもうひとつの世界で綿谷ノボルは僕にそっくりの風貌の男にいきなり殴りつけられ重体になっていました。テレビのニュースで知った僕は自分がやっていないことは分かっているので少しおかしいとは思いましたが焦ったりはしませんでした。
しかしそのテレビを見た人が自分を怪しげに見ているのです。
その数はどんどん増えていき、僕は焦りました。
自分がどんなに違うと言っても、ここにいる人たちは綿谷ノボルが好きだから、テレビの情報が真実だと疑いもしないから、自分の言うことは信じてくれないだろう、そう思ったのです。
ねじまき鳥である僕は、思いやりや愛する心を持ってはいても、実際は無職からナツメグとの出会いにより特殊な仕事についたという、少し変わった人間です。
悪である綿谷ノボルは経済学者であり政治評論家であり、実力派若手政治家として知名度も発信力もありました。
さて、どちらの言うことを私たちは信じるでしょうか?
ノモンハンの時代のねじまき鳥(間宮中尉)と悪(皮はぎボリス)の関係は明白でした。戦況に迷いながらも従事する中尉と、残虐な死刑を持って人を恐怖で縛り、不正を働き私財を潤すボリスは誰の目から見ても、人間的な中尉と悪魔的なボリスと見えたでしょう。
今の現代は戦争はありません。
しかし現代でもノモンハンの時代と同じなのです。
それを隠すカツラなり洋服が精巧になっただけで、根本的なところはやはり残っているのです。
だから、現代にもねじまき鳥が現れて岡田トオルのそばでねじを巻いたのだと思うのです。
謎の女とクミコと加納クレタ
主人公に電話をかけてきた謎の女はクミコだと主人公は確信します。
女は自分がクミコかは分からないと言いますが、おそらくクミコなのだと思います。
主人公と一緒にいた妻のクミコの内なるクミコというか、加納クレタのいう私の中にあるものでありながら、私の知らないものの擬人化なのだと思います。
クミコは出ていった理由として他の男と寝ていたの、あなたに罪悪感の一つも感じずに。と言います。
おそらくクミコが他の男と寝始めたときに、謎の女からの電話は鳴りだしたのだと思われます。
ここでクミコはすでに二つに分離していました。
謎の女の電話は性的なものでした。つまりクミコの欲望です。
そして加納クレタはおそらくもう一人のクミコの私の中にあるものでありながら、私の知らないものの擬人化であり、逃げだしたいという欲望な気がします。
主人公の妻であるクミコはとてもしっかりしていて、服や靴などはおろしたてのように見えるくらいでした。
なので、彼女の本質として自分から逃げたりすることは最も嫌いものの一つのはずです。しかしそれでも逃げだしたい、全てを投げ捨てて違う土地へ行き、目を閉じ、耳を塞いでしまいたい。
夫と二人でクレタ島に行ってしまえば、自分たちに悪が降りかかる事はない。
自分たち以外の人間は犠牲になるかもしれないけれど。
そう考えると加納クレタの苦痛の日々も納得がいきます。
彼女はクミコの苦痛を受け入れる人格だったのではないか。生理痛や肩こりや便秘やそういった様々な痛みを請け負う役。
加納クレタの話す兄弟像はクミコの兄弟像とは違いますが、兄、姉、自分という構図は同じですし、クミコは実際に姉を自死でなくし、クレタの場合は姉の長期の不在という説明になっています。
加納マルタの姉はクミコの姉でもあるのではないかと思っています。
守るための暴力
完璧なスイングだった。
バットは相手の首あたりを捉えた。骨の砕けるような嫌な音が聞こえた。三度目のスイングは頭に命中し、相手をはじき飛ばした。男は奇妙な短い声を上げて勢いよく床に倒れた。彼はそこに横たわって少し喉を鳴らしていたが、やがてそれも静まった。
僕は目をつぶり、何も考えず、その音のあたりにとどめの一撃を加えた。そんなことをしたくなかった。でもしないわけにはいかなかった。
憎しみからでも恐怖からでもなく、やるべきこととしてそれをやらなくてはならなかった。
↑太字は本書の通りです。
クミコを連れて帰るために戦わなければいけない相手。
それは綿谷ノボルであり、綿谷ノボルに惹かれるクミコ自身なのだと思います。
性的に惹かれるのではなく、綿谷ノボルが持っている力を魅力的に思ったり惹かれたりしてしまったのだと思います。
主人公がとどめの一撃を喰らわせたあと、現実世界で綿谷ノボルは脳溢血で意識不明になっていた。
主人公もまた間宮中尉と同じように相手を殺すことはできなかった。
しかし、今回の物語ではクミコが綿谷ノボルの生命維持装置を外し殺すことを決め、実行に移した。
これでシナモンによるねじまき鳥クロニクルはやっと終わりを迎え、シナモンは癒されるのだと思います。
クミコは捕まり、刑を受け、僕はまたクミコを待ち続ける。
今までの村上作品の中に「暴力」というのはなかった気がします。あってもそれを使う側ではなかった。
だけど今回は守りたいもののために使わざるを得なかった。
これは守りたいもののためなら暴力をふるってもいいのか?と考えることもできると思いますが、私が感じたことは、現代はノモンハンの時代の意味のないやるべきこととは違う、自分で考えて自分で守りたいもののためにやるべきことができる時代なんだ、ということでした。
主人公は対決のあと戻ってきた井戸の中で死にそうになります。空っぽだった井戸に水があふれてきたからです。
僕は死んでいこうとしていた。この世界に生きているほかのすべての人たちと同じように。
学校に行き、職場に行き、友達と遊び、恋人とケンカし・・・日常は動いていて、私たちも生きて動いていて・・・。
だけど、そこに自分の思考がなければ、言うなれば自分なりの戦いがなければ間宮中尉と同じ歩く脱け殻として闇の中に消えていくだけなのだと思いました。
なぜ間宮中尉がボリスを殺せなかったか。
それはやはり、悪の側の人間ではないからだと思う。守るべき者がいない場所で一対一で悪と対峙したとき、悪の側にいない人間は悪の人間のように割り切れない。
この心理はヘヴンで描かれているが、暴力を当たり前に出来る人間と出来ない人間がいて、出来ない人間は出来ないのだ。
だからもしそれが出来るとしたら、愛する人、守りたいものがあるときだけなんだと思う。