≪内容≫
『羊をめぐる冒険』から4年、激しく雪の降りしきる札幌の街から「僕」の新しい冒険が始まる。奇妙で複雑なダンス・ステップを踏みながら「僕」はその暗く危険な運命の迷路をすり抜けていく。70年代の魂の遍歴を辿った著者が80年代を舞台に、新たな価値を求めて闇と光の交錯を鮮やかに描きあげた話題作。
桜庭一樹と村上春樹、この二人が私の大好きな小説家です。
嫌いとか違和感って好きに一番近いよなって思います。
「良かった」「感動した」って感想だって好きの一部だけど、そこで終わってしまう。だけど、嫌いとか違和感は消えない。
踊る人間
音楽の鳴っている間はとにかく踊り続けるんだ。おいらの言ってることはわかるかい?
踊るんだ。踊り続けるんだ。
何故踊るかなんて考えちゃいけない。意味なんてことは考えちゃいけない。意味なんてもともとないんだ。
ここでいう踊るというのは生きるということで、音楽は意思、意味は生まれた意味、を指していると私は考える。
意思、つまり自分がどうしたいとか、そういうものがなくなってしまったら足が止まってしまう。
それでも生きることが踊ることなら、誰かに踊らされることになってしまう。
私たちは生まれた。
そこに何のために?なんてことを考える必要はない。
そう私が素直に思えるようになったのは、中村文則の「きみは生まれてきたんだから。生まれてきたんだからこの世界を楽しんでいいはずだ」という言葉に出会ったことが大きいと思う。
生まれてきたら、後はもう踊るだけなのだ。
だから、生まれてきたことに疑問を持ったり、立ち止まったりすると、足が止まってしまう。
時にはステップがズレて相手の足を踏むかもしれない、転ぶかもしれない。ソロダンスかもしれないし、コンビかもしれないし、集団かもしれない。
一人ではどうしても踊れないときは、誰かに手を引いてもらう、エスコートしてもらう。そうやって踊り続けるのだ。
待つ、は簡単じゃない
ゆっくりとしかるべき時が来るのを待てばいいんだ。何かを無理に変えようとせずに、物事が流れていく方向を見ればいいんだ。そして公平な目で物を見ようと努めればいいんだ。
そうすればどうすればいいのかが自然に理解出来る。
でもみんな忙しすぎる。
才能がありすぎて、やるべきことが多すぎる。
公平さについて真剣に考えるには自分に対する興味が大きすぎる。
人生が有限ということは、時間も有限で。
人は"何者"かになろうとその時間を使い、自分のために時間を使う。
恋人との時間、家族との時間、自分以外の誰かといるとき、それはお互いの時間を分け合い、調整し成り立つもの。
主人公の"僕"は、「暇」を作りました。
それは自分のための休暇ではなく、誰かが自分にコンタクトをとるための時間です。
つまり、それは待っていても来ないかもしれないし、来るとしてもいつ来るか分からない。
自分からは歩み寄れず、調整も出来ず、ただ来たものを受け入れる時間。
彼はたぶん、ダンスが上手ではないし、相手をエスコートするような技術もないだろう。だけど、他人に合わせて踊ることが出来るのだ。
名声や資産は持たないけれど、自分のやりたいように踊り、自分の意思で時間を作り出すことが出来る。
これはしようと思っても出来ないことで、彼の一つの才能なんだと感じました。自分のことだけで視界をいっぱいにするんじゃなくて、何か全く関係のなさそうなことにも繋がりを感じて、合わせようとする。
その結果として失うものが多いのだ。
もし、繋がりを拒絶して生きていたら失うものは多くないはず。
彼がたくさん失うのは、彼がたくさんのものを受け入れるから。
だからこそ、彼のためにたくさんの人が泣くのだ。
入口と出口
僕はベッドの上で世界を憎んだ。
心の底から、激しく、根源的に、世界を憎んだ。
世界は後味の悪い不条理な死で満ちていた。僕は無力であり、そして世界の汚物にまみれていた。
人々は入口から入ってきて、出口から出ていった。
出ていった人間は二度と戻ってこなかった。
1973年のピンボールで入口と出口が出て来ました。
主人公の"僕"は一つの部屋にいる。
その中にたくさんの人間が入ってくる。
そのどの人たちとも、美味しいお酒と食事をして、女性ならセックスもしたりしなかったりするけど、とりあえずある程度仲良くなる。
その部屋の中で、自分も相手も楽しんでいる風に見えるのに、彼らは皆出ていってしまう。
誰も彼の部屋には残らない。
彼は誰とでも踊れる。
だけど、出口へ向かう彼らを誰一人止める力はない。
しかし本書では、不登校のユキが出口に向かうのを制止する役となり、ユミヨシさんがうっかりとステップを踏み間違えたときにはエスコートして正常なダンスへと導いた。
この風の歌からの羊4部作は、主人公の強さの証明な気もします。
この羊作品に出てくるシステムについて、村上春樹は「エルサレム賞」受賞スピーチで壁と卵に例えて話しています。
私たちの世界では、この主人公のように目に見えてたくさん失うものはないかもしれないけど、見えないところで失われ続けているものであったり、誰かに損なわれているもので溢れている。
そして多くの場合、主人公のように私たちは無力で、出口に向かう人間を止めることは出来ない。
根源的な悪である羊に憑かれた友人、その友人の生贄になった友人、羊に背くために出口へ向かう友人。
それらは自分の部屋の中にいても、自分には手の届かないところで起きている。
本書の最後、主人公は、生と死の狭間の世界でユミヨシさんの手を離してしまったことに気付きます。
ここなのです。
私たちに出来るのは、迷っている人間に気付いて、その手を掴むことだけです。
もう出口に向かうことを決めた人間に、私たちはある意味で何も出来ない。
声をかけようが、力づくで止めようが、泣き落しを試みようが、そのときすでに彼らは足を止めている。
私たちに出来るのは、止まりそうなステップに気付いて一緒に踊ることだけです。
根源的な悪もシステムも造り出したのは人間で、それに潰されるのも人間です。
私は自分のことをすごく無力だと思っています。
自分が踊り続けることしか出来ません。
恐らく大半の人がそうだと思うのです。
そして、踊り続ける人間にしか出来ないことがあると思っています。
それは誰かと一緒に踊ること。
誰かと一緒に踊るってことは、自分のテリトリーに招き入れることだったり、相手の体に触れることだったり、色んな踊り方があります。
もちろん、誰かと踊ることでケンカになったりすることもあると思います。
一人だったら上手く踊れていたのに、誰かと踊るとなると煩わしくて上手く踊れなくなってしまうこともあるでしょう。
だけど、これは経験だと思うのです。
主人公が30代にして気付いたように、歳を重ねて色んな人と踊り、色んな人と別れ、色んなステップやアプローチが積み重なって、初めてエスコートしたり、違うステージに連れて行ったりすることが出来る。
上手く踊れなくても、自分の意思で踊っていることが大事だと思うのです。
そして、今どんなに自分のことを嫌いでも、待つことで見えてくるものがあるのだと。
だからダンスをかんたんにあきらめちゃだめなんだ。
かっこう。