私は最初の「銃」~「最後の命」くらいまでの、主人公がひたすら自分の感情と向き合いウジウジしながら生きていく話が好きなのですが、後半は他者が入ってきて、ああ、物語も生きているんだなと思いました。
理想の人生、理想の私
自分は、と小塚は思う。
こういう人生を歩みたかったという、ささやかな願望があった。誰かと一緒ではなくても、どこか静かな場所で、散歩をしたり本を読んだりしながら過ごしたいという願望。
こういう内面を抱えるのではなく、もう少しだけシンプルな内面を持つ人間になりたかったという願望。
人生をやり直すことって色んな意味で出来ません。
生まれた家庭をやり直すこと、少年時代をやり直すこと、親を選び直すこと、自分の選択を選び直すこと・・・他人の人生をもらうこと。
こういったことは不可能です。
しかしそれを可能にするのが「私の消滅」です。
私が空白になれば、用意された「理想の人生」を詰め込める。
平凡な家庭に生まれ、平凡な学生生活を過ごし、それなりに恋をして傷付いたりしながら大人になり、就職し結婚する・・・。
中村さんは全ての作品の主人公は僕自身と仰っています。
このこういう内面を抱えるのではなく、もう少しだけシンプルな内面を持つ人間になりたかったという願望というのは、「遮光」の主人公が持ち歩いていた「陰鬱」なんだろうな、と思います。
それを全て否定するのではなくて「もう少しだけ」と言っているのが、いいなぁと思いました。太宰治の「女生徒」にある一文
自分の個性みたいなものを、本当は、こっそり愛しているのだけれども
という感情が私にはあるので、自分のちょっと愚かな部分を全て捨てるのではなくて、少しだけ残したいというところに安心する。
どれだけ他人の人生羨んでも、自分が今まで過ごしてきた自分をそう簡単に否定なんて出来ないですよね。
どんな人生を歩もうが、大人になったということはどこかで踏ん張って頑張った過去の自分がいるからだと思っています。
そういう自分を自分で見つけて大事にしたいな、と思う。
私は、私を消して理想の人生を歩もうと思えるほどにはなっていないから。
過去が自分を襲っても
「きみは生まれてきたんだから。生まれてきたんだからこの世界を楽しんでいいはずだ」
麻酔で眠らせた彼女の頭に、震える手で電極を当てていく。涙が流れ続ける。
「過去が何だというのだろう?そんなものはいらない。そんなものは消えてなくなればいい。ささやかでいい。きみがこの世界を生きていたいと思えるくらいの幸福を」
「きみは生まれてきたんだから。生まれてきたんだからこの世界を楽しんでいいはずだ」
これに似た言葉が出てきたなぁ。どれだっけ。
「あなたが消えた夜に」かなぁ。
たぶん「掏摸」あたりから、人を思う心が強く書かれるようになったな、と思った記憶があります。
「誰かを救いたい」という歪んだ愛も含まれるようになった。
救いたいと躍起になっていた女が殺されたり狙われたりして、復讐や報復を企てる。だけど、結局自分も破滅する。
「きみは生まれてきたんだから。生まれてきたんだからこの世界を楽しんでいいはずだ」
これは、あなたが誰かにかけるためだけの言葉じゃなくって、自分にも当てはまるんだよ、あなただって生まれてきたんだから、自分のために笑ったり怒ったりしていいんだよって言いたくなる。
確かに過去は変えられないし、いつまでも記憶に残る。
いい思い出も忘れたい記憶も。
だけど、過去があったって、その過去がどれだけ悲惨でも、どれだけ自分を追いつめても「きみは生まれてきたんだから。生まれてきたんだからこの世界を楽しんでいいはずだ」。
そうでしょう?
過去に押しつぶされるために生まれてきたんじゃない。
私たちは生まれてきたんだから、無条件でこの世界を楽しむ権利を既に持っている。
中村さんの作品を全て読み終えて
明るくなりました。
これは、思いがけない副産物です。
もう暗い本読みたくない!!!!って思いました。
それくらい毒のある本でした。
何度も気持ち悪さと吐き気と頭痛に襲われ、悪夢は見るし、どんどん混沌に入っていく自分が分かる。(特に中村文則と村上龍を連続で読むと最高潮に頭痛と吐き気がする)
最初は特有の陰鬱さにシンパシーを感じて読み進めていったものの、最後の方に「あ、違うわ。私たぶん根は明るいわ。ここまではもう落ちていけない。」と思いました。
それでも中村さんの本はどんどん希望に向かっていくので、ひきずられるように読んでいました。
ショックセラピーみたいだなと思いました。
村上龍さんの「愛と幻想のファシズム」で私の胸にすごく刺さった言葉があります。
それは幼少期に愛されなかった子供は大人になっても渇いている、満たされない、というような言葉でした。
私はどうしてか、こういう理不尽な環境に自分が置かれなかったからこそ、そういった立場の人側にいなきゃいけない。というようなことを思ってしまうのです。
そんなこと思ったってしょーもないのに。
どこかで負い目というか、愛されて育ったことを否定しなければいけないという気持ちがあった。
そうしなければ平等じゃないと思っていたし、私は誰の気持ちも分かるような人間になりたかった。
私は愛されてる。
そして、愛されているから渇きを持っていない。
だから「渇き」が欲しくて羨ましくてしょうがなかった。
無理していたつもりはないし、考えすぎるのは自分のありのままの性格だと思っているけど、もし村上龍さんのいう「幼少期に愛されなかった子供は大人になっても渇いている、満たされない」というのが本当なら、私は永遠に愛される子供であり、永遠に渇くことはないのだと思った。
そして、それを受け入れることがとても自然なのだと思いました。
愛されることが罪。
中村さんの作品を読んでいて思ったことは、私のこんな考えは邪道だし、誰のためにもならないし、自分のためにもならないということ。
そして、私が暗い人間になろうとしてもそれは人工的なものであって自然ではないということ。
私にとっての自然は、愛されていることを受け入れた上で人生を生きていくことなのだということです。
今までは「自分を愛さなきゃ人を愛せないよ」とかいう自己啓発的な言葉に対して「絶対無理!!」って思っていました。
面白くないのに笑えるか!とか、初対面で話すことあるかい!とかね、ひねくれているとは分かっていても、どーしても無理だったんです。
だけど、自分は暗くないし愛されてるわ、と思うと、そういう言葉がすらっと受け入れられるようになりました。
中村さんの作品は、自分との対話っていう感じでした。
ただ単に楽しいとか、悲しいとか、励まされるとか、考えさせられる、とかではすまなくて、もっと大きな「自分とはどんな人間なんだろうか」という人生で最大の難問を突きつけられるような感覚でした。
私のこの「私は愛されている人間」というのもお得意のセルフ洗脳なのかもしれませんが、今のところはこの解釈に腑が落ちています。
もしかしたら、自分の知らなかった自分を知ることになるかもしれない、中村ワールド。全て読むのをおすすめします。
しつこいけど、私の一番大好きで愛しく思う作品は遮光。
ベスト100に入りますな。