≪内容≫
恋人の美紀の事故死を周囲に隠しながら、彼女は今でも生きていると、その幸福を語り続ける男。彼の手元には、黒いビニールに包まれた謎の瓶があった―。それは純愛か、狂気か。喪失感と行き場のない怒りに覆われた青春を、悲しみに抵抗する「虚言癖」の青年のうちに描き、圧倒的な衝撃と賞賛を集めた野間文芸新人賞受賞作。若き芥川賞・大江健三郎賞受賞作家の初期決定的代表作。
何てことないって心の中とか想像では大口叩けるのに、いざ実行したり失敗したときにとんでもなく焦るし、大袈裟だと思うくらい心臓が激しく鳴る。
この描写を書いてる本って今までになかった気がするんです。
特に今回の遮光は重なるところがたくさんあった。
本心なのか演じているのか
私はそれから彼女に言い寄り、そのままセックスをした。別に性欲を感じたわけではなかったが、何かを演じてみたかったような、そんな気分だった。
私は優しい男を演じ、嘘ばかり口にしながら、美紀の体を抱き寄せていた。これは私の、以前からの癖というか、病気のようなものだった。
本心がどうであったとしても、時折、殆ど発作的に何かの振りをしたくなることがあった。
その演技が自分にとって意味のないものであったとしても、何かに駆られるように、私はよくそれを始めた。
この文章にあたったとき、とてもびっくりした。
私は演じる・・・というか、笑っていても「本当に楽しいと思っているんだろうか?」とか、他人が欲しそうな言葉が分かると、それを口にしてもおかしくないような人間のフリを自然にしている気がしていた。
その演技は自分にとって意味はないんだけど(自分にとってはどうでもいいことだから)生きていくためには絶対に必要なものとして備わっている気がした。
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こういうことを世間的には「要領が良い」と言うと思うのですが、反対に要領が悪い人がいて、こういう人が近くにいると自分も苦しくなる。
相手が言って欲しい言葉が分からない故に焦っている本人と、言いたいことが伝わらずに苛立っている相手が見えるから。
そもそも私はその二人のことなんてどうでもいいはずだし、実際二人が仲違いしようがどうでもいいんだけど、何かに駆られるように二人の間に入ってフォローするという緩衝剤になりきり始める。
優しさとか空気を読むとか、そういうのって窮極的には嘘ばかり口にすることだと思う。
私が受け取ってほしい優しさと、相手が欲しい優しさは違うから、受け取ってもらうには相手の優しさに変換しなきゃいけない。
その為には私の本当の優しさじゃなくて、相手が欲しい優しさっていう自分にとっては嘘のものを差し出すしかない。
そういうことをくり返していく内に、どこまで本心で喜んでて、どこから怒っている演技をしているんだろうかと思う。
本当は、嬉しいときは無表情でも胸の中でじっくり噛みしめたいし、他人に対して怒るほど愛情持っていないし。
人と生きるっていうのは難しい。
「嬉しい?」「ねぇ怒ってるの?」「大丈夫?」「何考えているの?」
自分を掲示しなければ相手には伝わらない。
伝わらないことを良しとする人はほとんどいない。
人は誰でも心に闇を持っている
その時私は、当たり前のことだが、ここにいる人間は誰も、こんな瓶など持ってはいないのだと思った。そして、これをさらけ出して持っている私は、この街のどのスペースにも、いることはできないような、そんな気がした。
よく暗いと言われる私も著者の中村文則さんとかピースの又吉さんとかも根明だと思うんです。
本当に暗い人というのは、他者に向けて自分の暗さをアピールすることが出来ないと思うんです。
まぁ中村さんとか又吉さんのことは全然知りませんが、本当に陰鬱なものを持っている人って、その暗さを認めることが出来ない。
それは演技とかそういうのじゃなくて、暗さを認めたら呑み込まれると思っているんじゃないかというような抵抗っていうのか、無理しているとかそういうのでもなくて、悲しいことなんてないよっていう当たり前に無いものとしている気がするんです。
本書では美紀の指をホルマリン漬けにした瓶=自分の陰鬱さとして表現していて、引用文では、こういう陰鬱さを表立って出してたら生きていけないし、誰もそんな陰鬱さなんて持っていないよなってことを書いていると私は考えます。
陰鬱さではなくても人は誰でも誰にも触れられたくないような部分を持っていると思います。それをメディアに投げ出せる中村さんや又吉さんは、自分の陰鬱さに向き合っているからだと思うんです。
私は暗いけど何か?って態度で、暗いことで人に迷惑かけるより、自分が無理して笑う方が辛いのでバンバン言いたいこと言ってしまうので、多分根明なんだろうなぁって思います。
人って口に出さないだけで、みんな暗い部分あるんだな~って思います。
本書の主人公は恋人が死んだことで自分の陰鬱さに向き合うのですが、人ってきっかけがなければ自分より他人にどう見られるかの方を大事にしてしまうよなぁって思います。
それで知らず知らず自分が苦しんでいても、自分が我慢すればいいと思うし。
自分の暗さのせいで誰かが嫌な思いをするなら、相手が望む者になりたいと思うし。
だったらいっそ捨ててしまえばいいのに、それは出来ない。
見ないふりしようが蔑にしようが、誰にも求められていなくても、自分自身が求めているから捨てられない。
そういうものって秘かに、でも確かに存在してる。
悲しみを飲み込んで
骨とか、物とか、そういうのじゃ足りなくて、何か直接的な、美紀のものを、持っていたかったんだよ。馬鹿みたいだけどさ、ほんとに、馬鹿みたいだけど、でも、これが多分、ほんとうの俺なんだよ。
人からどう見られても、俺は真剣だったし、そう、人から、気持ち悪がられても、俺は真剣だったし、でも、俺は、こんなもの、いらないんだ。
俺は、こんなものよりも、本当は、美紀が、欲しかったんだ。
主人公は幼いときに両親を亡くしました。
形見として持っていた親の爪や髪の毛は気持ち悪いと捨てられました。
人からうっとうしがられないように、あまり悲しむなと言われました。
それから彼は人生が上手くいくようになりました。
憂鬱な人は人を憂鬱にする・・・は本当だと思う。
出来るだけ明るく、笑顔で、悲しみは乗り越えて立派な人間になりなさい。
ありきたりな教えを守ってきた主人公だったが、美紀を失った悲しみは乗り越えられず、悲しみと一体化することで物語は終わります。
別に美紀といた時だって演技していたわけです。
優しい彼氏を演じたり、こういうときはこう言うのがいいんだなとかテレビで見た言葉を自分の言葉のように使ったり、みんなと同じような、典型的なカップル、そして夫婦、家族になっていく予定だった。
恐ろしいのは、この↑のような典型的に見える家族、恋人たち、夫婦が、本当は主人公と同じように演技しているのではないかと思えること。
街を歩けば幸せそうなカップル、改札前でイチャこくカップルから、彼女が泣いていて彼氏が詰め寄ったりしている光景、ベビーカーを持つ夫と赤ちゃんを抱く妻が電車に乗ってきたり、歩道のど真ん中を手を繋いで歩く老夫婦など・・・はたから見れば幸せそうで典型的な恋人たちはたくさんいるけれど、その人たちの本心なんて他人には全く分からない。
悲しいとか嬉しいとか、見ないフリができる。
問題は見ないフリをしていることに気付いていないこと。
本当の悲しみなんて見つからないかもしれない。
文学の主人公というのは、当たり前のことを当たり前に考えて傷付く。
ということは、人は当たり前のことを当たり前に無視しているんだろうと思う。
衝撃の一作。