≪内容≫
救いを求めて旅だった若者たちはなぜこんな所に辿り着いてしまったのか?地下鉄サリン事件を生んだ「たましい」の暗闇に村上春樹が迫る。オウム信者徹底インタビュー。
自分的に衝撃だった一冊。
オウム関連の本は前作のアンダーグラウンドと本作しか読んでいないのですが、その中で自分がどちら側かと考えると、"約束された場所で"側だと感じた。(だけど、それは村上春樹が作家と彼らが宗教を希求する行為に共通点があると感じながらも同時に決定的な相違があるという言葉と同じ感覚です。)
私は今まで信者になった人は弱い人や依存心の強かったり騙されたりして入ったのかなって思ってました。
だけど、私の考えはとても浅はかでした。
信者達は何の効果も得ずに盲信していたわけではありませんでした。
この本のインタビュイー達は初めはこの新興宗教に対して胡散臭さ、はっきりとした懐疑心を抱いていました。
しかし、抱きながらも自分の足でヨガ道場に行ってみたり、本を買って書いてある内容を自分で実践しました。
そして何かしらの身体反応(もしくは神秘体験)を経験してから入信していました。
youtubeでオウム関連の映像を見ていたんですが、かなり怖かったです。
私が感じた恐怖は後半の河合隼雄さんと村上氏の対談で河合さんが語っていました。
信者は何を求めて出家したのか
つまり人を純粋に愛するというのは、自己のためにそれを利用するということが入っていないんです。でも恋愛はそうじゃない。
相手に好かれたいとか、そういうのが混じってきます。だって純粋に相手を愛するだけでいいのなら、片思いというのはぜんぜん苦しくないはずですよね。相手が不幸にならない限り、自分が相手に愛されないからといって、そのことで悶々と苦しむ必要はない。
なのについ苦しんでしまうのは、要するに「自分が相手に好かれたい」という欲望の追求がそこにあるからなんです。
(狩野浩之)
リセットですよね。人生のリセット・ボタンを押すことへの憧れ。たぶん僕はそういうことを思い描くことによって、カタルシスというか、心の安定を得ているんだと思います。
(波村秋生)
生きていく上で、とくに何か大きな不満を持っていたわけでもありませんし、困難を感じていたわけでもありません。ただ自分がこの現実社会の中で、こうやって生きていくということに対して、何か「足りていない」というように常に感じていました。
(増谷始)
解脱というのは、最終的なものになれば、永遠に幸福が続くものです。たとえば私は生活の中で幸福を感じても、それがいつまでも永続するわけではないという事実に対して、小さな頃からいつも無常のようなものを感じていました。
だからもし幸福が永遠に続くのであれば、それはどんなに素晴らしいことだろうと思ったのです。それが私だけにじゃなくて、すべての人にそういうことが可能になったとしたら、それはいいだろうな、と。
(神田美由紀)
兄はB型肝炎がもとで死んだんだけれど、僕にとってはすごい大きなショックでした。というのは、兄だっていずれは幸福になれるはずだという希望みたいなものを、僕は心の底にずっと持っていたんです。最後にはきっと救われるだろうと。
(細井真一)
まず自分の身体を変革し、その変革の延長の上に世の中を変えていかなくてはならないという宗教観には、非常にリアリティーを感じました。(救済の)可能性がもしあるとするなら、それはこういうところから始まるのかなと、僕はその当時思いました。
たとえば地球に食糧危機というのがありますが、オウム食みたいにみんなで食糧の摂取を少しずつ減らしていけば、そういう問題はうまく解決するのではないかと言われました。
(高橋英則)
全員ではないのですが、各インタビュイーの言葉を抜粋いたしました。
まず一番目のインタビュイーが狩野浩之さんなのですが、この人の思考回路にはかなり共感しました。とくに引用した部分。
このブログでも恋愛の話をするときに、似たようなことを書いてる気がします。
好きになるって押し付けじゃん!それ迷惑じゃん!っていうことを、多々書いてきました。私は全く引用文と同じ意見で、自分から好きになった人に対してはまさに相手が不幸にならない限り、自分が相手に愛されないからといって、そのことで悶々と苦しむことはないんです。
相手が自分を好きかなんてことより、幸せに生きてるのか?それだけが気になる。
例え、相手が幸せじゃなかったとしても幸せに出来る人が自分じゃないならそれを見守る。自分の気持ちより相手の気持ちを尊重したい、それが愛だと私は思っています。
私自身の愛は執着ではなく見守りなんですが、世の中の恋愛は執着で成り立つものと私は思っています。
恋愛の始まりは関わることから始まるから。
そして関わり続けることが恋愛なので、LINEの連絡を取り続けるとか、定期的に話すとか会うとかそういう歩み寄りが必要ですよね。
じゃあこの歩み寄りが何から生まれるかって突きつめると執着じゃないのかな、と私は思います。
じゃあ執着って何かというと、生きることへの執着です。
自分たちが生きているこの世界への希望を疑問を持たずに持つ続けられる人間がいます。
世界のあらゆる苦しみがテレビやネットで配信されていようが、絶望に足をとられない人間がいます。
たぶん、信者の人たちは救われることを願って入信したのではなくて、救うために入信したのだと思います。
この世界は不平等であり、幸福は一瞬である。
そんな世界に絶望したわけですが、決して自分たちだけがその苦しみから逃れようとしていたわけではないのです。
でも、それは正しくはない。
本当に本当に心から私が思うこと。
それは人は人を救えないということ。
もしも誰かを救いたいと思っている人がいるならこの本を読んで欲しい。
昔の私は誰かの役に立ちたくて、誰か困っている人を助けてあげられるような人間になりたくて、全てを善で塗り潰そうとしていました。
だけどそれは間違っていたのだと今は痛感しています。
ただ自分に見守る勇気がなかった。
相手が自力で立ち直れるのを待つという目に見えない優しさを知らなかった。相手が自力で立ち直ることを信じて待つことが出来なかっただけです。
人を救いたいと、助けたいと思うのは自由だし、素晴らしいことだと思うので否定は絶対にしないですし、私の中にもあります。
大事なのは救うという言葉が成り立つのは、いつも救われた側が実感してこそだということです。
救う救われるも善悪も、スパっと切り分けることはできない。
救ってるつもりで、自分が救われてること、善をしてるつもりでも相手からすれば良からぬことをしている可能性。"救う"には"救われる"が、"善"には"悪"が含まれていること。
オウムの人に会っていて思ったんですが、「けっこういいやつだな」という人が多いんですね。はっきり言っちゃうと、被害者のほうが強い個性のある人は多かったです。良くも悪くも「ああ、これが社会だ」と思いました。それに比べると、オウムの人はおしなべて「感じがいい」としか言いようがなかったです。
(村上春樹)
いいやつなのに、善なのに、上手くいかない理由。
それは河合先生が教えてくれました。
一人殺したら殺人、百人殺したら英雄
悪いやつで人殺ししたやついうたら、そんなに多くないはずです。だいたい善意の人というのが無茶苦茶人を殺したりするんです。よく言われることですが、悪意に基づく殺人で殺される人は数が知れてますが、正義のための殺人っちゅうのはなんといっても大量ですよ。だから良いことをやろうというのは、ものすごいむずかしいことです。それでこのオウムの人たちというのは、やっぱりどうしても、「良いこと」にとりつかれた人ですからねえ。
では「悪いこと」とは?
オウムや仏教では「煩悩」こそが苦の原因とされているようです。
煩悩。何を想像しますか?
好きな人に好かれたい、出世したい、お金を稼ぎたい、いい服を着たい、贅沢な買い物や食事をしたい・・・を私は想像しました。
確かに行き過ぎると悪になることばかりですよね。
- 好きな人に好かれたい=ストーカーの初期衝動
- 出世したい=媚を売る可能性、不正、差別の可能性
- お金を稼ぎたい=贅沢
- いい服を着たい=贅沢
- 贅沢な買い物や食事をしたい=贅沢
贅沢って悪なのかって話なんですが、これは私の個人的解釈です。
例えば日本昔話って贅沢を望んだ者は何らかの罰を受ける話が多くないですか?
後は、贅沢という言葉の意味が行き過ぎるという内容だったためです。
贅沢って人によって使う場面が変わってくると思うので、何を持って贅沢というのかが難しいと思いますが、要するに自分の力量以上のものを欲しがるってことは、誰かから奪うことになります。
では煩悩を捨てたら人は幸せになれるのか?
煩悩を捨てる=解脱になるわけですが、神田美由紀さんが言うように解脱したら永遠に幸せが続くのか?
いや、だからね、煩悩があって消耗しないことには宗教にならないんです。煩悩を捨てたら、そんな人はもう仏様になっとるんやから。
つまり、皆が仏様になれば永遠に幸せが続く=皆殺しという発想なのでしょうか。
そう考えると私の中では辻妻が合います。
だけど、そもそも皆殺しは悪いことです。
「良いこと」にとりつかれた人たちはなぜ「悪いこと」をしてしまったのか。
みんな自分たちは純粋で、そんな悪いことなんかするわけがないと思っているんです。ところが何も悪いことをするはずがないような人間がいっぱい集まってくると、ものすごう悪いことをせんといかんようになるんです。そうしないと組織が維持できません。
ナチズムを挙げて説明されていました。
彼らも信じていましたよね、あの虐殺を「良いこと」だと。
私は宗教に対して怖いという印象がどうしても拭えなくて、更に宗教に入っていると聞くと、それだけでもう分かり合えないんじゃないかと思ってしまいます。
それがどうしてなのか自分で把握したいけれどどうしても分からず「なんか」とか「なんとなく」という曖昧な言葉に甘んじてきました。
だけど、今までの読書と本書を読んだことで、もしかして宗教の行く先に想像も出来ないほどの破滅があることを知識はなくとも肌で感じていたからなのかもしれないと思いました。
考えたらね、あの世に行くのにものを持っていく人間なんていないですね。みんな捨てていくわけでしょう。だから出家というのは死ぬのと同じです。あの世に行くみたいなもんです。だから楽といえば楽だと言えるし、全部すっきりしていると言えるんだけれど、そうは言ってもやはり、我々はみんなこの世に生きてるんだから、ものを捨てるのと同時に、この世に生きてる苦しみを引き受けて、両方同時に持っていないといけない。そうしてない人はほんとには信用できないんじゃないかと僕は思います。葛藤というのものがなくなってしまうわけでしょう。
※太線は私がつけました
どうしても感じてしまう宗教の勧誘の人たちへの違和感はこれかなぁと思います。
悩みは生きてるから生まれるものだから、それを誰かに明け渡すことは命を自分で捨ててしまうような気がするんです。
嫌な奴や分かり合えない奴に出会って心底苦しむときも、社会に嫌気がさすときも、もう死んで楽になりたいと思ってしまうこともある。
それでも自分から生まれたものを捨てられないから人は葛藤するんだろうと思うし、葛藤するから人は人を求めて、分かり合おうと歩み寄って優しさが生まれるんだと思う。
宗教の人たちを否定する気持ちはありません。
ただ、この本を読むとすごく潔癖なのです。
綺麗なものしか認めたくないような。
それって裏を返せば汚いものを差別してることになりませんか?
育った家庭環境は影響するのか?
村上春樹さんがインタビューしていて感じたことの一つに家庭環境がありました。
村上:両親からの正常な愛情が幼い人格形成期に乱れていたというか足りないというか、そういうケースが多かったような気がします。
河合:ここは非常に、むずかしいところですが、しかし一般論的にいえば、それはたしかに言えると思います。
それはどういうことかと言いますとね、この人たちは頭ですごく考えとるでしょう。こんなふうにぐっと小さい箱に入ってものをぐんぐん考えようとするときに、それをくい止めるのはやはり人間関係なんです。やっぱり父親とか母親です。感情です。それが動いていると、こんな小さな箱にはなかなか入れないんです。なんやらおかしいやないかと、そういう気持ちが働くんですよ。
(中略)
だからね、この人たちが言うとるようなのと似たことは、若い人たちはみんな多かれ少なかれ考えてると思うんです。
なんのために生きているかとか、こんなことしてても仕方ないんじゃないかとか、いろいろと真剣に考えてはいるんだけれど、そこには今言ったような自然な感情が流れたり、全体的なバランスの感覚が働いたりして、その中で自分をつくっていくわけです。
ところかオウムの人たちはそこのところが切れてしまっているから、すっとそのままあっちにいってしまうんです。だから気の毒といえば、本当に気の毒なんです。
感情って見えないから簡単なことじゃないですよね。
KY(空気が読めない)って言葉がありました。
空気は見えないし、教科書みたいに読み方があるわけじゃないですよね。
まさに肌で感じるものだと思います。
だから、そこに決まってる"答え"はない。
その時ごとに変わるもので、不動のものじゃありません。
そういうものをどこで体得するかというと、他者の感情を何度もぶつけられながら会得していくような気がするんです。
私にとってそれって気持ち良いものじゃないですし、面倒ですし、7割はナニクソと思うんですけど、確かに他者がいると小さな箱に入る時間がないんですよね。
悲しみに浸りたくても他者がいることで客観的な視点が否応なく介入してくるので、全く浸れない。
誰もが24時間365日聖人君子でいるなんて不可能だと思うし、そんな人間がいたとして私は「へえ~!すごい!あなたみたいになりたい!あなたと友達になりたい!」とは思わない。寧ろ気持ち悪いなと思う。
昨日電車で他人を押しのけて席に着いた人が、今日は自分の前の席が空いたら誰かに譲るかもしれない。
人は今日はやさしくて、明日は意地悪だって何もおかしくないと思う。
だって神様じゃないし、仏様じゃないんだもん。
この世界に生きてるから、誰かにやさしくされた日はそのやさしさを自分も誰かに渡せるかもしれない。
誰かに冷たくされた日はその悲しみを誰かにぶつけてしまうかもしれない。
そういうものを絶対にダメだとしてしまうことや、相手を100%やさしい人だとか100%悪い人だと決めつけてしまうことが人を追いつめていくと思う。
白黒決めることは決める側にとっては楽な方法だけど、決められる側にとってはたまらないものだと思います。
人と付き合う、関わりあうのは答えもないし、そのたびにまた新しい選択を自分の頭でしていかなくてはいけないから、未知で意味分からないし、傷付くかも知れなくて怖いけど、自分も相手も人間で100%に振りきれる成分は無いんだと思えば少しは楽になりませんかね?
怖いからといって一人で閉じこもることを良しとしてしまう、見て見ぬふりしてしまう、アイツはちょっとおかしいからとしてしまう、人はまあそれぞれだからと我関せず精神で生きる。
それってとても楽です。切ってしまえばいいから。
自分の言葉が届かないくらい、小さな箱に入ってしまった人に根気強く話しかけるのはすごく大変なことだと思います。
やったことはないけど、やってみよう!ってすぐに思えるようなことじゃないし、考えただけで私は逃げ出したい、切ってしまいたいと思ってしまう。
だけど逃げるなら、この本を読む前の私と同じだし何も変わらない。
自分はやらないけど、誰かやってよ、誰か責任とってよ、あなたでしょ?この人を産んだの。あなたの家族でしょ、家族が責任持ちなさいよ、育て方が悪かったんじゃないの?・・・
それでいいのかなあ。
いや、良くないことをなんとなく感じているから考えてる。
でも一人じゃ小さな箱を開ける勇気が持てない。
たぶん、箱を目の前にしてただ見てるだけになってしまう気がする。
何回か声はかけるけど、反応がなかったり変わらなかったりしたら匙を投げてしまう気がする。
でももし、私の隣に誰かがいて、その誰かが一緒に箱に向かって話しかけてくれたら、一人でやるより長く箱の前にいれる気がするんです。
私はその箱が空くまで箱の前で待っていたいんです。でも一人で待つことは出来なくて、箱の前で待つ私を見ててくれる誰かがいないと動けない。
だけど、じゃあ見てるよって言ってくれる人がいたとして、私は待ち続けられるだろうか。私は待ちたい、そばにいてくれる人は特に何とも思っていない。だから声を発するのは私だけ。
でも、私が箱に声をかけるとき、その人が後ろから私に声をかけてくれるなら、私は頑張れるかもしれない。
ただそばにいるだけじゃ不安だけど、後ろから言葉をくれるなら。
口にしないけど心の中では応援してるよって見守ってるよって言われたら、もちろん信じたいけど心細くて耐えられないかもしれない。
信じたい人がいるから信じるっていうのは難しい。
だけど信じたい人がいて、更に自分を信じてくれる人がいるなら、出来るかもしれないことが少しだけでも増える気がする。
それが社会で、それが人が一人では生きていけないって意味であって欲しいと思います。