≪内容≫
“『革命』に、すべてを賭けたかった・・・・・・”
日本赤軍との関係も深い若松孝二監督が、革命を叫ぶ若者のそばから1972年の連合赤軍・あさま山荘事件に迫る人間ドラマ。
今まで、「あさま山荘事件」が有名すぎて、あさま山荘でリンチがあったんだと思い込んでた。この人たちと近い年齢の作家さんの作品には学生運動の様子がちらっと入っていたりするんだけど、それだけこの世代の方たちは混乱の時代に生きていたのかな・・・。
連合赤軍とオウム
二大ホラー映画より怖い日本の実際にあった事件である。
私は三時間あるこの映画を見れば、連合赤軍が何を目的としてどんな世界を目指したがために革命を起こしたいと思ったのか分かると思って観はじめたのだけど、結果全然分からなかった。ただ、「自己批判します!」と「総括せよ!」という言葉だけが頭に残り夢にまで出てくるが、自己批判と総括の意味が分からず、全く不完全燃焼なままよく分からない二つの言葉を覚えるに留まった。
殴られて気絶すればそれから目覚めたとき新たな人間となって共産主義化は可能となる
有名なリンチが始まるきっかけは、この言葉であり、殺す目的ではなく、生まれ変わりを目的としたリンチだった模様。
オウムのポアが頭に浮かんだ。
この映画の主人公的な役割だった遠山は、「死にたくないんです」「革命戦士になって強くなりたいんです」的なことを総括で言うんですが、それ自体が敗北といって怒られます。んで、総括出来てないと言われリンチ→死亡となります。
たぶん、一個人としての本能(生きたいとか恋愛感情という名の欲望)を捨てて、共産主義(全員が平等な世界)のために命をかけるのが革命戦士で、革命戦士になるための必須項目が総括で、総括に合格すれば戦士、不合格だと共産主義化のためのリンチ(死亡率100%)の二つに一つの道しかなかったのだと思います。
んで、その合否を決めるトップ二人は寝るんですけど、この女性・永田には恋人がいました。寝たあとに、「私とこの人が一緒になるのが正しいと思う」と同じ連合赤軍にいる彼氏に言い放つ。私とあなたでは階級が違うし・・・とか言って。
いやいや共産主義化して一個人の欲望なり何なり捨てるなら恋人は一人という概念は矛盾では?恋人も共有財産でいいのでは?ていうかこの革命は階級(ブルジョワ)に対する反抗ではないのか・・・?
私は、頑張ってる人を笑うことはしたくない。それがどんなことでも大まじめにやってるんなら、頑張れ、と思う。
ただ、「「革命」にすべてを賭けたかった・・・」とか「自己批判」「総括」とか、言葉自体に雰囲気とか意味がありそうなものに対しては「で、それってなんなの」ってつっこみたくなってしまう。
それがどんだけ大事で、その先に何が見えてんのかを言葉で説明できない限り信用出来ないなぁって思ってしまう。
仕事でも日常でもそうなんだけど、質問した時に、
「言葉で言わなくても分かるだろう」
「自分で考えろ」
って返事だと
「自分に酔ってんのかな」
「この人もほんとうのところは分かってないんだろうな」
「説明できない自分を突きつけられて怒ったのかな」
と、私は考えてしまうのであった。
ほんとうに理解してほしいなら、相手が理解できる言葉で理解出来るまで説明する労力を惜しむべきじゃないし、それを他人に転嫁する時点でついていくには地に足がついてなさすぎて・・・不安。
でも、ちょうどうちの親が50年代生まれだったので聞いてみたら、やっぱり時代的に上からの圧力がすごかったから反抗の雰囲気はあった、と言ってました。今の時代はかなり自由だそうです。やはり時代の雰囲気とかってリアルタイムじゃないと分からないことがあるな・・・と思いました。