≪内容≫
激動する1990年、世界経済は恐慌へ突入。日本は未曽有の危機を迎えた。サバイバリスト鈴原冬二をカリスマとする政治結社「狩猟社」のもとには、日本を代表する学者、官僚、そしてテロリストが結集。人々は彼らをファシストと呼んだが…。これはかつてない規模で描かれた衝撃の政治経済小説である。
刺激的です!!
グレーゾーンをぶち壊すカリスマあらわる。
この世には強い奴と弱い奴がいる
この世の中には、強い奴と弱い奴がいます、フィールドに行くと、フィールドというのは猟場のことですが、フィールドに行くとよく分かります、弱い種は絶滅するか、弱い種なりの生き方をしています、だめな奴が死んで、優秀で強い奴が生き残って子孫を残して行きます、
そんな当たり前のことをちゃんとやっていないのは、人間だけです
科学の進歩は、未熟児も立派に成長できる世界を作りました。
動物の親は弱い子供を自ら食べたり、巣から追い出したりしますよね。
人間は違う。弱くても守る。人権というものを生まれながらに手にしているから。
だからこそ、人間が増え過ぎて、弱い人間は弱さを盾にする。
力のある者が弱き者を守る。
それに甘えて、自分の力以上のものを欲しがる弱者。
この現状をおかしいと訴える者が現れた。
ハンターのトウジです。
本作の主人公です。
本作はトウジと、相棒のゼロを中心に成り立っています。
光と影のように、彼らは一対です。
そして、強い部分をトウジが、弱い部分をゼロが担っています。
弱さを嫌うトウジは、自分の党で力を失っていった者を容赦なく切り捨てていきます。それなのに、一番弱いゼロを処理できずにいる。
強いという定義は弱いモノがなければ生まれない。
だから常に一定数の弱さは必要なんです。
そして、その弱さはどんな人間にでもある。
それが如実に分かる本でした。
本当は人間には何の欲望もない
対象があるために欲望が発生するだけだ。
(中略)
俺はその時自分に衣服が必要なのが我慢ならなかった。言葉を喋るのも吐き気がするほどいやだった。大脳に裸の女が浮かび上がってくるのが恥ずかしかった。
こんなこと思ったら生きていけないよ・・・と思いましたね・・・。
バタイユが動物と人間を分けたのが理性と言っているように、人間には思想があるから、内在性の世界には絶対に行けない。
動物と違い死の概念が人間に根付いたときから、きっとその死を乗り越えようとしてきたのではないかと思う。
だから笑う、楽しむ、喜ぶ、といったことが受け入れられたのではないかと私は思っています。
著者は意識の揺れを吹き飛ばしてくれるような何かとは大きなパワーであり、セックスとか戦争とか、とインタビューで話していましたが、その二大パワーだけじゃ麻薬みたいなものでしょう?
そのときだけは、色んなものから解き放たれても日々は続いて行くわけで。
欲望は大きくても小さくても存在してこそ人間なんだろうな、と思います。
人から見たら欲望に見えなくてもね。
例えば「誰かと恋をしたい」とか「家族を笑わせたい」とか、そういうのだって欲望なわけで。
自分の身を自分で守る動物、弱肉強食の世界を人間世界に持ち込むのはとてもナンセンスだと思います。
言いたいことも分かるし、「ですよね」と思う気持ちもあるけど、弱い人に助けられている人がいるから。
その助けられている人も弱いのかもしれないけれど。
私は、自分に自信を持つ一番早くってカンタンなことは誰かに感謝されることだと思っています。
それはやっぱり求めている人がいなきゃ得られないもので。
その求める人はある時は弱者であり、ある時は強者であったりするものだから、誰かに甘える人間を排除するのは、良いことのように思えるけど違うんじゃないかな、と思う。
だって、やっぱり夢とか考えるときに、やりたいから!って理由と同じくらい誰かのために、って思うでしょう。
そこが滑稽なんだよな、とも思うんですが、この感情を持たない人間ほど弱いと思う。
ちなみに本書のいう弱者とは
・子供の頃に殺されずに済んだという運
・病気に打ち勝つからだ
・殺し合いに生き残る力
の3つを持たない人間と書かれています。
快楽がない人間には遠くは見れない
快楽とは、生き延びるのに必要なことがらをやった場合に与えられる
物語の最後に向かっていくにつれて、どんどん快楽を感じなくなってしまう二人。
トウジは焦燥を感じ、ゼロは自殺する。
ゼロに死んだ方がいいと言ったトウジでしたが、これはゼロが役に立たなかったからでも弱かったからでもなくて、二つの感情があったのではないかと思います。
1、快楽を失ったゼロが殺してくれと言っているように感じたから
2、快楽を失くしていく恐怖に勝つ為に、ゼロが死ぬという大きな興奮が必要だったから
主人公はトウジなんですが、自殺願望のあるゼロがトウジによって自殺をやめて、狩猟社を二人で立ち上げて夢中になり、自分が一番成果を感じた時に自殺するという、ゼロの弱者から強者になり死んでいく話とも見れます。
結局、成功しようがしまいがゼロは死んじゃうんですよ。
これが「羊をめぐる冒険」で出てきた"弱さ"なのかな、とも思います。
そういう意味で、強さってあの3つを持っているだけじゃ成り立たない。
私は弱いゼロが好きです。
トウジもフルーツ(ゼロの彼女)もゼロが大好きです。
それはやっぱりゼロが弱いからなんじゃないかな、と思います。
ゼロのような弱さは、どこか子供のような無邪気さや、子供特有の単純明快な一喜一憂で成り立っているから手を差し伸べたくなるんです。
今こいつの快楽を俺が握っている・・・というような感じですかね。
自分が笑えば笑い、落ち込めば一緒に落ち込んでくれる健気な分身みたいな存在です。
トウジが追い続けたエルクを見つけてくれるのはいつもゼロなんですよ・・・。
やばい、泣きそう・・・。泣く
だから、ゼロが死んで泣けないトウジはもうエルクを捕まえることは絶対に出来ないだろうな・・・と思う。
結局、最初はグリズリーのように本能の獣になりたいと思っていたのに、最後には快楽さえ得られずに、本能から一番遠いところにきてしまったトウジ。
色んな人を処理して、ゼロを失って、エルクも遠く離れて、そこまでして強者と弱者をはっきりと分けたかったのかい?
世界と戦うために、獣から一番遠いシステムの一部になるのかい?
とても悲しいお話だった。
刺激的な言葉がたくさんあって、気付かされることや、すごいなってびっくりするようなこともたくさんあった。
だけど、だけど、こんなのってありかよって思った。
結局何のために?
人が動くときには絶対に理由があるし、欲しいものがあるじゃんか。
なのに、トウジはいったい何がしたくて何が欲しかったのか、終わりに近付くにつれて迷っていくトウジに悲しくなる。
迷わないでくれと泣くゼロのように。
たぶん、ゼロも生きてそんなトウジを見たくなかったんじゃないかと思う。
読み終わってから、最初のページに戻ると、まだ何者でもない二人がとてもキラキラしていて、そのあったかくて美しい過去がこんな結末になるなんて、とても悲しい・・・。