≪内容≫
古典『見聞録』で楽園と謳われた島の架空の港町。新町長の下「鳥打ち」の職に就く三人の青年に最大の転機が…自我と自由を巡る傑作!
現実は非現実、非現実は現実。
どこまでがリアルで、どこまでが夢なのか。
そもそも、それさえも知る必要なんてないのかも。
ちょっとマニアックかなぁ、好き嫌いが激しく分かれそう・・・と思いました。
架空の港町にて
本書における重要性を順番にまとめる。
・アレパティロオオアゲハ
・ネルヴォサの葉(↑の主食)
・鳥打ちの三人の青年
・吹き矢に使うロロクリット(植物)
・落ちぶれた漁師
一番大切なのはアゲハ蝶。
それを守るために鳥を殺す鳥打ち。
鳥打ちの出現で落ちぶれた漁師。
他の人間の生活様式は一切出てこない。
架空の港町とは、ほんとうの名前で、何か町らしい名前もちゃんとあったのだけど、住民が「架空の港町」という蔑称をことのほか気に入り、今では誰もつけられた町らしき名前を覚えていない。
アレパティロオオアゲハは美しいため観光産業に力をいれようとした新町長の作戦で、この町は新たな名所として脚光を浴びることになったのだが、蝶は弱い。
鳥打ちによって生態系を壊さなければ成り立たない命です。
架空の港町の中は生態系を壊し、不自然な自然で観光客を呼び込む。
何かが間違ってる。
そんな町だけど、なんてたって架空の港町だから、それはたいした問題ではないのかもしれない。
欲望のない世界?
鳥打ちの一人である天野は鳥を殺すことが出来なくなり、リュトリュクという架空の通りに身を隠す。
そればかりか、ここの住人もまた、自分のことをあまり気にかけてはいない。酔いどれたちの生き方は、どうせ架空の人生を生きているのだから、といった意識的な居直りに他ならなかったが、リュトリュクの人々は起きているにせよ、眠っているにせよ、本当に夢遊病者であるような生に身を置いていた。
ふわふわしてる。
誰もが「どうでもいい」という感覚や「何となく」という感じで、自分で選んだり考えたりはするけれど、どこか無気力な感じがずーっと漂っています。
彼らは日によって猿になったり、処刑になったりする。
意思がなければ何にでもなれる。
村上龍の作品と真反対だな、って思いました。
どこにもエネルギーがなくって、誰にも情熱がない。
これは初めて出会う世界観かも。
いぐあな老師のレシピ
最後にレシピがバーっと載っているんですが、これ魚介類と鶏と野菜しかないんです。
だからある意味で、自給自足的な街だなぁって思いました。
私たちの現実的な生活って、鳥打ちとか漁師とかに繋がっていないじゃないですか。
誰かがどこかで、牛や豚や鶏をしめてスーパーに卸す。魚もそう。
それを消費者は見ないでスーパーで死んだものを買うだけ。
架空の港町では、人間は無気力だけど非常に現実的な生活をしています。
寧ろそういう生死が常にそばにあるから無気力なのかな?
スーパーで買うような人間の方が、見なくていいものを見ないで済むから気力がわくのかな?
読書をしていると、自分なりに落ちをつけられるというか、大体こういうことをテーマにしてるのかな、とか伝えたいところはここかな?って思うのですが、本書に関しては「・・・?」と思うところが多くって、これは薦める人によって全く違う像になるんじゃないか・・・と思いました。
それだけ空白があるというか、余白があるというか。
私は押し付けのような詰まった小説は息が詰まってしまうので、こういう分からなさが好きだったりします。
一人で生きていけないアゲハのために、その幼虫を啄む鳥を撃つ人間。
なぜそのアゲハを守るのかっていったら観光業のためで。
アゲハのためって言うけれど、結局人間が人間のために殺してるんですよね。
でもじゃあそれって魚を獲ったり、牧場だってそうじゃないか。
野生の鳥を撃ち殺すのはダメだけど、食用の鶏は絞めていい。
それは心は痛まない。
自由に飛んでいるものの羽根を奪うのはご法度。
ならば最初から羽根をもいで自由に飛ばないようにしちゃえばいい。
そうすれば矯正された側もした側も心は痛まない。
はたしてそうだろうか?
タイトル「鳥打ちも夜更けには」って夜明けじゃなくて、夜更け。
朝が来るのではなく、深い夜がやってくる。