≪内容≫
青春の追憶と内なる魂の旅を描く表題作ほか6篇。著者初の短篇集。
本作は1986年の本で、私が今まで読んだ村上作品は、この本より後に出されたものが大半です。
まだ洗練されていない青年のような感じがしました。
いつもより、もっと迷っていて、もっと明確で、もっと熱い・・・気がしました。
午後の最後の芝生
うまくいくといいですね、と彼は言う。でもうまくいくわけなんてないのだ。うまくいったためしもないのだ。
でもだからって、いったいどうすればいい?
うまくいくとかうまくいかないとかの解決方法はあるのだろうか?
例えば、一番身近な人間関係や恋愛関係において。
相手にOOしてほしい、相手から求められたい、そういう感情が正しいのだろうか?
目の前の芝生を刈る。
丁寧に刈る。
目の前の相手を受け入れる。
相手を変えようとはしない。
それが主人公の生き方です。たぶん。
そうして主人公は彼女に振られます。
「あなたは私にいろんなものを求めているのでしょうけれど」と恋人は書いていた。
「私は自分が何かを求められているとはどうしても思えないのです」
人間関係や恋愛関係において、相手に何も求めない、ありのままの相手を受け入れるという人を、「関心がない」と感じる人もいると思います。
目の前の芝生を正しく丁寧に刈る。
仕事においては評価されることも、対人関係では価値が薄い。
受け入れているのにね。
何も文句はないのにね。
彼もまた模索しながら生きているのだと思います。
恋愛って相手に介入したり介入されたり、めっちゃ嫌になったり相手を嫌な気持ちにさせたりしますよね。
もしそれをしなくて済むのなら、したくはないんだけど、そんなことしなくて済む人間同士なら惹かれないんじゃないかと思って。
だから結局するべきなのに逃げてるってことになって、逃げられちゃうってことなのかな・・・と思いました。
土の中の彼女の小さな犬
ある場合には雨と言うのは純粋に個人的な体験だ。つまり雨を中心にして意識が回転すると同時に意識を中心にして雨が回転するーすごく漠然とした言い方だけれどーということがある。
そういう時、僕の頭はひどく混乱してしまう。
いま僕の眺めている雨がどちら側の雨なのかわからなくなってしまうからだ。
私のイメージは自分が台風の目の中にいるか、台風の映像を見ているか、という感じです。
どちらも直接的な被害は受けない。
見ているだけ。
だけど、どちらにいるかで影響は大きく変わる。
そして、どちらにもいける。
自分次第で。
何人かのガールフレンドが僕の周りを廻っていたのか、僕が何人かのガールフレンドの回りを廻っていたのか。
地球上では生者が中心となって生活しているのか、それとも死者が支配している中で生活しているのか。
向こう側とこちら側は遠くない。
すぐ近くにある。
その世界に足を踏み入れても、すぐに引き返すことのできる人もいれば、その世界に留まる人、その世界の名残をずっと胸にしまう人・・・。
見えなくても、ある。
こちら側とあちら側。
私は今どこにいるんだろう。
シドニーのグリーン・ストリート
羊男出た!!!!(歓喜)
「どうして羊男を憎むんですか。良い人じゃありませんか」と僕は言った。
「理由なんてあるもんか。ただあいつらが憎いんじゃ。あいつらがあんなみっともない格好して楽しそうに暮らしておるのを見ると、もう無性に憎いんじゃよ」
羊男は羊博士にちぎり取られた耳を取り返してくれと私立探偵の僕に依頼してきた。
僕と中国人の女の子「ちゃーりー」は羊博士に羊男の耳を返してくれと頼みに行く・・・。
私は羊男がほんとうに大好きなのですが、なぜ好きなのか、なぜこんなに気になる存在なのかよく分かりません。
作品によって羊男の像が崩れるし、なんせ意味不明だし・・・。
だけどいつもその時を生きている感じがして好きです。未来とか過去とかを感じさせないというか、今しかない感じがします。
純粋に悲しみ、喜び、迷ったりする。
生きていると、色んな邪心があって参っちゃいます。
特に自分が打算的だなと思ったときとか、他人の欲望を感じ取ったときなど・・・。
欲望が悪いわけじゃなくて、邪な欲望というか、惰性した欲望というか。
純粋な欲望は美しいものもあると思うので・・・。
羊男への嫉みで耳を引きちぎった羊博士ですが、もしもこの人のことめっちゃ嫌い!って人がいたら、もしかしたら自分の知らない自分がその人に憧れているからかもしれませんね。
貧乏な叔母さんの話も好き。 私には貧乏なフリしている叔母さんがいるけど、そのことについて書こうなんて思ったことはない。