深夜図書

書評と映画評が主な雑記ブログ。不定期に23:30更新しています。独断と偏見、ネタバレ必至ですので、お気をつけ下さいまし。なお、ブログ内の人物名は敬称略となっております。

【映画】バーニング劇場版観てきた。納屋を焼く、の考察。

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全然観る気なかったんですけど、これにやられた。

 

www.cinra.net

私が韓国映画に興味を持ったきっかけであり、配信もレンタルも新品もない映画「ペパーミント・キャンディー」がバーニングのおかげで配給されるというじゃないですか!!!!ありがとう村上春樹!!

知らなかったけど「オアシス」もめっちゃ面白そう・・・!

ということで、バーニングを見に行くことにしました。あと、とあるブロガーさんの感想で気になってたのもあったし、原作も好きだから・・・。

螢・納屋を焼く・その他の短編 (新潮文庫)

螢・納屋を焼く・その他の短編 (新潮文庫)

 

「螢・納屋を焼く・その他短編」の記事を読む。

原作もいいけど、韓国版好きだなぁ。

 

韓国版「納屋を焼く」の考察

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原作は30Pくらいの短編なのですが、割と忠実に映画化されてるかな、と思います。

原作は主人公と女性がひとまわり年の離れている知り合い程度ですが、映画版は旧友であり恋人ではないけれど、双方の間に恋愛感情があります。

 

この違いは結構大きいかもしれません。

 

小説の方は、村上春樹らしくとてもクールです。そして映画版は韓国映画らしく熱っぽい。韓国の方は結構ドラマチックというか、小道具の使い方とか猫の登場とか、わりかし分かりやすく書いてくれてます。

 

映画版の納屋を焼く男は、間接的にですが、言葉と行動ではっきりと納屋=彼女であることを示しています。

 

  • 彼女と彼を家に誘い手料理をふるまうとき、それを「供え物」と発言する。(友達にはつまみしか作らない)
  • ドレッサーの引き出しにたくさんの女性物のアクセサリー(遺品という名の戦利品)
  • 化粧ボックス及び女性にメイクする(死化粧)

 

彼は二週間に一回納屋を焼くと言う。

 

彼は何なのか。何のために孤独な死んでも誰も気にしないような女性をピックアップして焼くのか。

女性である必要は、彼にとって神格化されてる性が女だからなのかな、と思います。すごくタイムリーですが、こちらの小説ではヤドカリを殺すことで自分の願いが叶うとしてヤドカリを焼き殺します。

そこには何の罪悪感もありません。ただ、そうすれば自分の願いが叶うと思っているのです。 納屋を焼く男にも罪悪感はありません。子供たちがヤドカリが死なないようにに海水を取り換え世話を焼きながらも最後には殺してしまうように、男も殺すまでは金をかけつまらない話を聞き、サービスしています。

 

では男は女を殺すことで何か願い事をしているのか、と言うとそうではありません。男は殺すことで自分の心臓の音(ベース)を感じています。つまり、彼が生きていることを実感するために殺すのです。そしてその実感は二週間しか続かない。

 

「つまり僕がここにいて、僕があそこにいる。僕は東京にいて、僕は同時にチュニスにいる。責めるのが僕であり、ゆるすのが僕です。それ以外に何がありますか。」

※小説から引用

 

これは同時存在について男が語っている内容であり、同時存在=モラリティー(道徳)であると男は言います。

男は世の中にはたくさんの納屋があり、それらは自分に焼かれるのを待っている気がする、と言います。

 

つまり彼女は納屋であり、僕も納屋である。彼女は一文なしで孤独でいて、僕は若くして金持ちである。焼くのが僕であり、焼かれるのが彼女である。

一個人として考えれば別々の人生だが、納屋とカテゴライズするならば僕も彼女も同じである。

 

いいですか、僕はモラリティーというものを信じています。モラリティーなしに人間は存在できません。僕はモラリティーというのは同時存在のことじゃないかと思うんです

※小説から引用

 

人は道徳なしに人間とは言えない。しかし道徳が同時存在とするならば、幸せを感じるために苦しみがあるように、生を感じるために死があることを認めなければならない。

 

正直、小説を読んでいた時は次の「踊る小人」に心奪われたため、そんなにこの同時存在に対して深く考えることはありませんでした。しかしこうやって考えると非常に恐ろしい話であり、村上春樹は割と一貫して同じことを警告しているんだな、という風に感じました。

  

さて、なぜ男はただ納屋を焼くのではなく、「お供え」をするのだろうか。

それは、ただ納屋を焼くだけならそれは放火という罪であり殺人行為のため、道徳に反するがお供えをすることで相手を神格化してしまえばそれは一つの宗教的行為になり道徳から外れることにならないからです。

 

この一節でモラリティーの問題は解決され、僕=彼女=納屋で同時存在に辿り着きます。こういう怖さ。人の知識、理屈、そういったものが文化を発展させてきたと同時に罪を許す、悪を認める力になってきたこと。そういう同時存在の怖さを表現しているのかな、と思います。

 

小説では恋仲でもなかったし、それほど深入りしなかった主人公ですが映画版では愛する人を奪われた主人公です。

最後彼が全ての服を燃やしたのは脱皮のように思えたし、彼の父親の怒りに任せて母親のものを燃やしたエピソードも生きてきます。

 

そして彼女が七歳のときに落ちた井戸のエピソードも、彼女の現実剥離が七歳から始まっていたこと、井戸はなかったという彼女の家族と井戸はあったという借金まみれの主人公の母親の存在が、マジョリティと社会システムに喰われて死の直面に瀕している人物として描かれています。

 

www.cinemart.co.jp

バーニングは4/4までだそうです。初めてシネマート新宿に行ったんですが、観客15人くらいだったかな。ほとんど一人で、3組くらい友達同士とカップルがいたんですが、皆おっそろしいほど行儀よくって物音ひとつしなかった。聞こえたのはクシャミくらい。TCGカード作っちゃった。